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内なる社会を飛ばす

内なる社会

 内なる社会の内容をもっと飛ばさないといけない。飛ばすといっても政治を変えるぐらいしかできない。まあ、歴史まで至ったらしょうがないですから。

 社会で一番、重要なのは、国民の意識を変えるところです。どちらから持っていくかです。共有といっても、彼らはできないです。

 むしろ、LINEにみられるような、新しいつながり。ゲーム化からコミュニティ化に持っていくこと。そこでも情報共有がベースです。そういっても、コミュニティのなかでの情報共有です。そこへテーマとして、割り込んで、片付けて、一つずつ、事業化していく。

 店舗から考えると、売ることが中心でやってきた。売るために存在していると思っている組織をいかに変えていくのか。社会環境としては、売ることだけはどうにもならない。どのようにつながっていって、共存していくのか。

 当然、お客様の意識も明確にしていかないといけないけど、ここのお客様を相手にはできない。お客様自身もコミュニティを作っていく。自分たちのコミュニティの目的が変わってきます。

 色々なテーマを個人の分化の力を使って、変えていくということです。そこで集まったことをどのようにコミュニティの力にしていくかです。何しろ、圧倒的なボリュームです。売るだけなら、ターゲットは絞れるけど、使うとなると、膨大で多様です。
 
 それぞれの人たちの思いは異なります。それをいかに受けてやるのか。それをいかに組織的にやっていくのか。というよりも、個人の色々な観点を拡げていけるのか、そのためには、個人が思いを発信しないといけない。

明治維新と比べると

 脱藩して、国のことを考えるということが、組織の中から起こり得るかどうか。明治維新の時は下級武士の方から動き出したという感じです。今の社会にはそういう概念があまりないです。

 就職するだけで一杯です。そこでの命令を聞くことで、安泰な生活。国の先を見たら、そんなことで済むはずがないのに、その幻想のもとで動いていく。本人はそこで家族のため、組織のためで済ますが、結局は明治維新は起こるのです。

 あれも、自分たちが変わらないと、シナを同じになってしまうという、脅迫概念です。脅迫概念を共有でき、利害が一致したから、明治維新につながっていったのです。今も、全く同じ状況なのに、なぜ、動かないのか。

 個人が少し分化すればわかることを、自己完結という名のものに適当にやっているのか。組織に依存して先を見ないのか。

 長州藩にしても同じです。彼らが持ち応えたのは、国民の期待、といっても江戸ですけど、そこからの支援を受けたからです。国民主権でない時代でもできた。薩摩は単にそれに乗っかっただけです。意味はありません。その意味では、幕府の自壊です。

 日本の政府も対外的な関係を同じ状況にあります。このまま、憲法改正し、ハイパーインフレを起こして、日本は死んでいくのか。それを着々と進めている政府があり、それを支援するマスコミにどう対抗していくのか。

 組織のなかの人間を使わなくてできるのか、組織そのものの力を使わずにできるのか。ハイパーインフラで一番困るのは組織です。何しろ、保険も含めて、社会が成り立たなくなる。消費者そのものが存在しなくなる。その中から経営者とHEROが出てこないとだめです。
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VVCが残した教訓

『リ・インベンション』より

日本の自動車業界のなかで、トヨタ自動車は長らく「石橋を叩いて、なお渡らない」保守的な会社として知られていました。一九八〇年頃から日米貿易摩擦が政治問題に発展したときも、本田技研工業や日産自動車はいち早くアメリカやイギリスに工場を新設して、現地生産に乗り出す意向を表明したのに対して、トヨタ自動車はゼネラルモーターズが閉鎖したカリフォルニア州の工場を動かして合弁生産に乗り出すと発表するのが精一杯でした。この予備実験で懸案事項を確認して、それから自社工場を立ち上げたトヨタ自動車は、北米で本田技研工業に五年の遅れをとっています。

このエピソードが象徴するトョタ自動車の保守性を一変させた人物がいます。一九九五年に社長に就任した奥田碩氏です。奥田氏は一九九九年に会長に退き、財界活動に乗り出すまでの四年の間に、世界で初の(イブリッドカ’‐、プリウスの販売を決断したり、ダイ(ッエ業の経営権を取得したり、随所で攻めの経営を貫きました。

その奥田氏が一九九七年に立ち上げた組織に、バーチャルーペンチャー・カンパニー(VVC)というものがあります。これは、二〇代上二〇代のニュとンェネレーション(NG)層で市場占有率が低迷しているのに動こうとしない社内組織に業を煮やした奥田氏が、社長直轄の組織で状況を変えようとしたものです。大企業病を患うトヨタ自動車を変革する先兵となることが、VVCに課せられた使命と見てよいでしょう。VVCは、「従来の世代とは明らかに異なる価値観を持ち、異なる消費行動を取り入れ始めた」生活者にアプローチする方法を考案するところからスタートして、実車の開発も手がけました。

奥田氏の肝煎りだけに、VVCは経営史上に名を残す革新的な実験に乗り出しています。「情報ネットワーク社会の中で能動的な情報選択を行い、自分なりのくこだわり〉を大切にする」NG層にリーチするには、自動車という枠に囚われていては駄目だと考えて、自らの活動を異業種合同プロジェクトに発展させたのです。従来のマス・了・‐ケティングが通用しなくなった現実に戸惑いを覚えていたアサヒビール、花王、近畿日本ツーリスト、松下電器産業(現パナソニック)がVVCの発想に共鳴し、五社が企業や業種の壁を越えてWILLというブランドを共有するという壮大な実験が一九九九年に始まりました。翌二〇〇〇年にはコクョと江崎グリコも実験に参加しています。正方形のオレンジ色が目立つロゴをつけたビールや、消臭スプレーや、旅行パッケージや、家電製品を覚えていらっしやる方も多いのではないでしょうか。

VVCは、「遊びゴコロと本物感」というコンセプトの下に三車型を送り出しました。カボチャの馬車をイメージしたvlと、ステルス戦闘機をイメージしたVSと、ディスプレー一体型ヘルメットをイメージしたサイファです。開発に携わったメンバーは、「VVCは社長の直属で商品性について口を出さないことになっていたので思うとおりやれた」と語っています。コーディネーターも、「自分たちだけでトヨタ全体を変えることはできないが、トヨタが変わるための起爆剤にはなりうる。従来のトヨタの常識にとらわれず、思い切った発想を生かせることがこの組織の強み」というコメントを残していることを考え合わせると、奥田氏の狙いどおりの展開と言ってよいかと思います。

製品の企画から販売まで一貫して同じチームが手がけるというVVCの手法は、第2部で見たリ・インベンションの事例と何ら変わらないように見えます。その点は、VVCメンバーのコ人が発想したとんがったアィデアも、様々な部署でもまれるうちに丸くなり、面白みのない企画になる従来のようなことはなかった」という証言が裏付けています。しかし、VVCは市場で成功を収めるには遠く及びませんでした。

新ブランドの第一弾となったV1は二〇〇〇年の冬に投入されましたが、わずか二年で販売は打ち切られています。「なごみ」をモチーフにして若い女性をターゲットに据えたモデルなので、季節ごとに新色を出すなど工夫を凝らしたものの、月販実績は量産ラィンー日分の生産台数にも届かなかったようです。

第二弾のVSは二〇〇一年の春に投入されましたが、こちらも三年で販売終了となっています。量産車種のモデルチェンジサイクルが四年であることを考えると、とても成功とは言いがたいでしょう。VSは若い男性をターゲットに「クール」というモチーフを打ち出したものの、それがターゲット層を揺り動かすことはありませんでした。

第三弾のサイファは二〇〇二年の夏に投入されましたが、これも三年で消えてしまいました。サイファは「サイバーカプセル」をモチーフとして、トヨタ車で初めてG-BOOKという通信端末を内蔵しました。これはアイパッドと同等の機能を八年も先に実現しようとする野心的な試みと言ってよいでしょう。しかし、いかんせん時期が早すぎました。技術が理想に追いついていなかったのです。三車型のなかでサイファは売れた方ですが、それでも販売目標には届かなかったようです。

結果を出せなかったのはトヨタ自動車だけではありません。共同戦線を張った他社も軒並み販売不振に苦しみ、アサヒビールと花王が一足先(二〇〇二年の夏)に脱退したあと、異業種合同プロジェクト自体が二〇〇四年の夏に幕を引きました。発表から五年の命ということになります。奥田氏は二〇〇二年に日本経営者団体連盟と経済団体連合会の統合を成し遂げて、二〇〇六年まで日本経済団体連合会の初代会長を務めていたので、VVCを守る立場にはなかったものと思われます。

プロジェクトそのものは話題性に富んでおり、マスメディアが大々的に取り上げたので、WILLという共有ブランドそのものはNG層で八○%という高水準のブランド認知度を達成しました。それでも販売が目標に届かなかったのは、各社の製品にNG層が背を向けたということになります。WILLブランドに対して「自分向き」と答えた人がNG層でわずか三%に過ぎないという調査結果が、すべてを物語っていると言ってよいでしょう。
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