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『ヘーゲル「精神現象学」』の全文OCR

緒論【A】
 〔一 絶対者のみが真なるもの、真なるもののみが絶対〕
 〔二 現象知叙述の要〕
 〔三 叙述の方法〕

第一章 意識
 I 感覚的確信 あるいは「このもの」と思いこみ
 Ⅱ 知覚、あるいは物と錯覚
 Ⅲ 力と悟性、現象と超感覚的世界

第二章 自己意識

 ◆ヘーゲルの全体体系
 ◆「承認をめぐるたたかい」から「主奴論」ヘ
 ◆「自己意識の自由」とその三類型
 Ⅳ 自分自身だという確信の真理
 A 自己意識の自立性と非自立性、主と奴
 B 自己意識の自由

第三章 理性

 ◆あらゆる実在であるという確信
 ◆「私」の外化と、普遍意志の成立
 ◆「中級用意識論」における理性の成立
 ◆個普関係と主客関係
 ◆理性章の進行
 V 理性の確信と真理
 A 観察する理性
 B 理性的な自己意識の自分自身による実現
 C 自体的かつ対自的に(絶対的に)実在的だと自覚している個体性

第四章 精神

 ◆ヘーゲルの歴史解説
 ◆二つの問いー「人間」と「近代」
 ◆「人倫」から「良心」まで
 ◆近代精神の諸範型
 ◆「良心」の境位

Ⅵ 精神 (西)

 A 真実な精神 人倫
 B 自分から疎遠になった精神 教養
 Ⅰ 自分から疎遠になった精神の世界
 Ⅱ 啓蒙(以降竹田)
 Ⅲ 絶対自由と恐怖
 C 自分自身を確信している精神 道徳性

第五章 宗教

 ◆「神」を自己の本質として知る精神
 ◆宗教の最高の階段としての啓示宗教-・キリスト教
 A 自然的宗教
 B 芸術宗教
 C 啓示宗教(キリスト教)

第六章 絶対知

 ◆絶対知とは何か
 ◆以後の展開
 Ⅶ 絶対知
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地域コミュニティ活性化の要件

『自治体行政の領域』より 「新しい公共」を支える地域コミュニティ

私の問題意識:地域コミュニティにおける情報共有と、その結果での市民の分化との関係 

「活性化の要件」をリーダーの資質、行政の対応及びコミュニティの活動方法の3点に分けて検討する。

 (1)リーダーの資質

  21年報告には、「地域を引っ張るリーダーの存在」等の人材力が「地域の活性化の差をもたらす根源的な要素」とのみ記載がある。他方、44年報告では、都市化に伴い「名望有力者型」リーダーに変わって、各種行政ルートの機能分化に見合った、行政協力、補助団体の役職を一手に引き受ける「役職有力者型」リーダーが中心となっているが、行政協力・補助で手一杯で自主的な地域活動が不十分であること、固定化と高齢化の問題、更には地域社会の大きな変動を見通し的確に対処する資質に欠けていることから、住民一般の総意と利害を代弁する代表型ではなく、教育、文化、スポーツなど特定の生活領域においてのみ専門性を発揮する「有限責任型」リーダーの登場が期待されている。 44年報告から40数年が経過した現時点においても、同様のことが地域のリーダー批判として、ステレオタイプ的に語られることもあるが、少なくとも2つの事例をはじめ右京区内では、同一人物が多くの団体のトップを兼ねていることはなく、「有限責任型」となっている。その上で、更に自治連合会が核となり、各種団体のネットワークを密にすることにより、少子高齢化で不足し、かつ行政の縦割りを反映して分散化されがちな地域のマンパワーを結集し、新たな課題に対処することを可能とならしめている。

  このように、これからの地域コミュニティ活性化に期待されるリーダーの資質としては、牽引型の強いリーダーシップよりも、公共交通の確保や小学校休校といった多くの住民が危機意識等を共有しやすい課題やビジョンを的確に提示し、その解決の取組みに際しては、コミュニケーションや共感を重視し、各種団体のリーダー等をうまくコーディネートできる「サーバント(奉仕型)・リーダーシップ」の発揮が重要と考える。2つの事例では、こうした資質を持った新しい夕イプのリーダーの存在が確認された。

  同時に、2人のリーダーに共通する行動として、大学など外部の協力者づくりに熱心であること、及び行政の下請けではなく、行政を巧みに活用していることが指摘できる。

 (2)行政の対応

  44年報告では、行政におけるフィードバック・システムの確立、各種コミュニティ施設の整備、情報の提供及びリーダーの養成が政府の施策として重要としている。

  これらが今でも重要でないとはいわないが、地域コミュニティに「新しい公共」の担い手としてより高次の機能を求める趣旨からは、ヒト・カネ・モノの支援の充実及びその支援のタイミングが重要である。

  まず「ヒト」「カネ」については、21年報告で「特に取組の初期段階において、コーディネーターとして職員を検討の場に派遣することや初期費用の負担など、人材面、資金面等のイニシャルコストを負担することが有効」であり、「イベント組織が恒常的な地域福祉組織にステップアップするときなど、コミュニティ組織等の活動密度の変化が大きいタイミングに政策を打つことが効果的」としており、同意できる。「地域がやる気を出し始めた頃に行政が入っていくとうまくいくが、行政の都合で、地域に何かやってもらうように投げかけてもいい結果は生まれない」とのベテランの担当職員の言が全てを物語っているように、地域の自立を阻害しないように注意深く「つなく≒刺激する、フォロー」することが肝要である。今回の事例では、市のコミュニティ政策(区役所機能等)の充実に呼応するように、「要望→協働→地域主導」へと地域活動が進展していった。同時に、地域活動の進展に従って、いわゆるソーシャル・キャピタルが蓄積され、政策効果が高められたといえそうである。松尾会長は、数年間の様々な取組みを振り返り「何とかしよう、と住民の話し合いの参加率が上がり、声もでてきた」と変化を実感されている。

 (3)コミュニティの活動方法

  最後に、コミュニティの活動方法について検討する。現代は地域ごとに置かれている状況の差異が大きく、極論すれば地域の数だけ課題がある。かつ、地域の高齢化と人口減、自治体財政の悪化などリソースが枯渇している。このため、地域課題を多数の住民が共感・意思決定し、その解決に向けて利害やイデオロギーを超えて地域ぐるみで取り組まれ、かつそうした取組みが発展継続されることが地域コミュニティ活性化の最大のポイントと考える。

  この点について、2つの事例から次のようなヒントが得られた。1つに、地域内部の人的リソースや行政からだけでなく、大学、企業、NPO等から知識・ノウハウ・資金等のリソースを能動的に取り入れること。今回の事例では特に、大学(教授)の専門知識や学生の若い力によるインターミディアリ(仲介)機能が有効であった。2つに、取組みの節目ごとに住民が成果を実感できるように工夫されていること。市バスの増便といった大きな成果はもとより年度ごとの種々のアウトプットが大切であり、顕彰や新聞にとりあげられるなど「外褒め」されることもその一つである。3つに、ある取組みが山を越えた頃に、次の課題に向けた取組みの種が蒔かれ、活動エネルギーを途絶えさせないことである。4つに、ワークショップ手法を採り入れ、参加者が対等かつオープンに参加できるように配慮されていること。5つに、「重要且つ大切な活動は、人と人との繋がりの大切さと、いつ迄も末永く継続して安心安全な活動で喜びを感じつつ肩肘を張る事なく、充実感をもてるものでなければなりません」との高岡会長の言にあるように、力を合わせて活動する愉しさこそが活動の原動力といえよう。
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世界は3つの層でできている

『なぜゴッホは貧乏で、ピカソは金持ちだったのか?』より 企業や個人が国家に代わってお金をつくる世界へ

私の問題意識:個人間のネットワークを力にするコミュニティ

第1層に、地政学的に切り分けられた「国家(ソブリン)」、その上に第2層として、国境を超えて地上をまるで雲のように漂う「企業(グローバルーカンパニー)」最後に第3層として、さらにその上にオゾン層のように点在し結びつきあう「個人間の紐帯(ネットワーク)」がある。

「国家(ソブリン)」については、すでに述べたとおりで、言うべきことはそれほどない。

国家とは知ってのとおり、地政学的に分割され、政府によって統治されている地域コミュニティのことだ。人びとは、移動コストを理由に何千年も国家というコミュニティに依存して生きてきたが、すでに述べたように、その存在意義の低下は著しい。

一方で、企業(グローバル・カンパニー)の存在感は、人々の想像以上に大きくなっている。GE(ゼネラル・エレクトリック)には病院から学校までなんでもそろっているし、アップルがアメリカ政府より多くの現預金を保有することはよく知られている。

日本企業でも、グローバル化はどんどん進んでいる。ュニクロを展開するファーストリテイリングや楽天は、社内の英語公用語化を掲げ、新卒採用でも中国人をはじめとするアジアからの留学生を積極的に採るようになった。これらの企業行動の背景には、「企業」が静かに日本という「国家」から離陸し、世界の空へと飛び立とうとしている姿がみえる。企業は国境を超え、その上に漂うことのできる存在である。

これらの日本企業は、そもそも「自分たちは日本国の一部である」という認識を持っていない(捨てた)のである(もちろん、日本に貢献したいと思っているだろうが)。それが、ュニクロや楽天の動きである。英語公用語化は、些末な各論にすぎない。これら企業は、「国家」という縛りから解き放たれ、グローバルに戦う〝収意表明〟をした新たな共同体の姿なのだ。

政府や行政、財界という「国家」に属しそこに従事する人びとは、そうした企業の認識を本質的に理解していない。「日本企業は日本国のもの」だと、心のどこかで固く信じている。「国家」側も、企業の海外移転の動きを察知し、法人税の引き下げなど対処策を打ってはいるが、残念ながら企業側からすれば、一時的な引き留め工作にしか映らないのである。

その企業の上に、霧のように存在する「個人間の紐帯(ネットワーク)」は、インターネットの発明によって、乗数的に加速してきた新しい層である。インターネットは、1991年8月6日に最初のウェブページが公開されてから、わずか20年の間に膨大に増殖した。現在では、196億8000万のウェブページが存在する。すでに世界の記録情報の90%以上を飲み込んだウェブは、今、人びとの経歴や個人間の関係といった有機的な情報を蓄え始めた。

ソーシャルーネットワークは、個人間の紐帯を明らかにし、強固にし、組織化し続ける。早晩、ウェブは我々の「履歴書」となり、個人の「信用」の源泉となるだろう。

フェイスブックやツイッターといった個々のサービス自体は弱体化し衰退するかもしれないが、この個人間の紐帯を強化する流れが止まることはない。やがてウェブ上のコミュニティはそこに必要な機能(憲法・教育・医療・福祉・市場・法律など)をみずからつくり始めるだろう。それは、今の国家が保有しているものである。
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