マタイの福音書 23章15−26節
本来ならきょう戻るはずでしたが、航空会社のストライキの影響で明日に延期されました。コールセンターの方の的確な案内で、無事に代替便を確保できました。お風呂に入れる……など、一日得をしたような気持ちです。
「みことばの光」では、マタイの福音書23章は三回に分けて読むのですが、今日はその中段。ここでは、「わざわいだ」ということばから始めて、主イエスが律法学者やパリサイ人たちを非難しています。
「わざわいだ」は、他の日本語聖書では「不幸だ」、「災いあれ」などと訳されています。もともとは嘆きや痛みを表す間投詞で、日本語では「ああっ!」などと表し、13節から29節の間に7回も用いられています。なぜこれほどまでに、パリサイ人や律法学者たちにイエスが激しい嘆きを表すのでしょうか。彼らが人々の大きなつまずきになっているから、彼らがいっしょうけんめいしていることが人々を神から、神の国から遠ざけているからです。
イエスは、彼らが熱心だということを知っておられました。しかし、その熱心はイエスがこの世界に届ける福音を妨げるものでした。だからこそ、彼らが熱心であればあるだけ、イエスの「ああ!」という嘆きは響きわたるのです。
「目の見えない案内人」ということばを心に留めたいと思いました。彼らは人々を神のもとに導く案内人を自称していました。しかし、肝心の案内人には本当に大切なものが見えていないのです。彼らを案内するべき道が見えていないのです。そんな案内人に連れて行かれるところがどこかは明らかです。
自分は誰によって案内されているのだろうか、自分は誰をどこに案内しようとしているのだろうかと、少し静かな時間を取るのはどうでしょうか。