みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

わたしにしたのです

2024年03月19日 | マタイの福音書

マタイの福音書 25章31−46節

 聖書同盟が発行している「日ごと」にの版下がほぼ完成しました。初版の発行は1976年とありましたので、ロングセラーです。昨今の書籍はすぐに絶版になることを考えると、本書は貴重な存在だと思います。発行されたら、詳しく紹介させていただきます。

 終末を待つ、すなわちキリストの再臨を待つ人々のこころえについて、イエスは三つのたとえを用いて話しておられます。きょうは三つ目のたとえで、「羊とやぎのたとえ」と言われているものです。しかし、厳密に言うなら三つ目はたとえではなく、比喩です。

 31節に目が留まります。イエスはここで、ご自分が「栄光を帯びてすべての御使いたちを伴って来る」と言われます。その時に、それまでは明らかにされなかったことが明らかにされます。

 ここでは、おいでになる「人の子」、つまりイエス自身がすべての国の人々をより分けるのです。「イエスなど知らん」「私には関係がない」などと考え、言っていた人々もすべて、イエスの前に立ち、さばかれます。「さばく」には、「より分ける」との意味があります。

 人々を右と左に分ける基準は何でしょうか。イエスに対して行った愛のわざです。イエスの右に集められる人々は、イエスが空腹だった時に食べ物を与え、渇いていた時に飲ませ……とあります。他方、イエスの左に集められる人々は、イエスが空腹だった時に食べ物をくれず、渇いていた時に飲ませず……とあるのです。

 その時に、「イエスだとわかっていたら…」と嘆く人々も多いのではないだろうか……。しかし、イエスは「最も小さな者の一人」として私たちの目の前に現われるお方なのです。「わたしにしたのです」ということばに目を心を留めましょう。


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