みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

生き方を返した

2022年10月13日 | エゼキエル書

エゼキエル書 22章17−31節

 昨日、第二次世界大戦中に投下された不発弾処理のために、市内の広い範囲が立ち入り禁止となりました。改めて数えてみますと戦後77年が経っています。処理は無事に完了したとのことで安堵した人も多かったことでしょう。

 ここでは、「次のような主のことばが私にあった」が17節と23節にあり、それぞれにエルサレムの罪が明らかにされます。

 17―22節で神は、イスラエルの家が金かすとなったと言っておられます。イスラエルは自分たちが銀のように価値があると自負していたのですが、実は無価値なものの集まりのようになっていたのです。主はそれらを、怒りと憤りをもって溶かすと言われます。けれども、そのような中にも神のご自分の民への積極的な目的が明らかにされています。

 22節に「このとき、あなたがたは、主であるわたしがあなたがたの上に憤りを注いだことを知る」とあります。「主であるわたしが」ということばに、神がイスラエルをどのように見ておられるのかが明らかにされます。

 23−31節で神は、エルサレムのさまざまな人々の罪を責めます。ここには、預言者たち、祭司たち、高官たちという指導的立場の人もいれば、民衆もいます。立場の違いを問わず、誰もが神が怒られるようなことを行っていました。預言者も、祭司も、そして高官たちも、ここで主が探し求めた「破れ口に立つ者」であるはずでした。しかし、誰一人としてそのように生きることはなかったのです。

 本章終わりの「彼らの頭上に彼らの生き方を返した」ということばに目が留まります。このことばと「彼は私たちの背きのために刺され、私たちの咎のために砕かれた」というイザヤ書53章5節が重なるときに、救い主の姿が見えてきます。


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