民数記 35章1−8節
きのうは、電話(ラジオ)メッセージの録音に出かけました。受難週のために2回分、イースター日曜日とイースター月曜日のために2回分です。担当の方が日本語の「ありがとう」を覚えてくださいました。嬉しかったです。ですから、私たちがたどたどしいドイツ語で挨拶をするのをきっと喜んでくださっているのだろう、と想像できました。
レビ人が住む町は、イスラエルの各部族が定住する所有地の中に点在しますが、大きい部族からは大きく、小さい部族からは少なく与えるように命じられています。レビ人の町と放牧地の大きさは4、5節に記されていますが、図で示すとこんなふうになります。こんなことがあるのかしら、と考えてしまうのですが、可能性としては、「みことばの光」が書いているように、町の大きさに合わせて放牧地の大きさも変化するのかもしれません。もし、図示のようなものが可能だとしたら、町の大きさはとても小さなものだったと考えられます。
それでは、なぜ主はレビ人の48の町々をイスラエルの各部族の間に散らしたのでしょうか。ある解説によると、イスラエルの民が聖なる民となるように召されたことを忘れないために、神はレビ人を各地に散在させたのだとあります。神に直接に仕える、そして相続地を持たないレビ人が自分たちの近くに住んでいることによって、確かにイスラエルの民が神を忘れずに覚えるきっかけになったのかもしれません。
自分が神のものであることを忘れないためにはどのようなものがあるのかと、考えるきっかけになりますね。
写真は放送局近くの林で一枚。花のように美しい霜。まだまだ寒いです。