みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

そこにいた人

2016年03月25日 | 受難と復活

マタイの福音書 27章45−56節

 当地では、きょうから連休になります。きょうはKarfreitag(聖金曜日)という祝日で主イエスが十字架で死なれた日をおぼえます。日曜日はOstersonntag、つまりイースターの日曜日。そしてさらに、月曜日はOstermontag(復活祭月曜日)の祝日と続くのです。春到来という時でもあり、多くの人はどこかに出かけます。きのうは、連休前に買い物をしようという人たちでスーパーが混んでいました。休日、祝日にはお店は休みだからです。さて、教会へは…?

 今年「みことばの光」は、マタイの福音書27章後半から28章を読みます。三日間読む聖書箇所には、それぞれ女性たちが描かれています。十字架にお架かりになり息を引き取られる様子を見ていたのは、ガリラヤからついて来た女性であり、その中にマグダラのマリヤ、ヤコブとヨセフの母マリヤ、そしてゼベダイの子らの母がいました。

 さらに、女性たちはイエスの埋葬の場面でも描かれ、日曜日早朝の墓の前にも立ちます。十字架と復活という重要な場面で、そこにいたのは弟子たちではなくて彼女たちだったということが、印象に残ります。

 私は彼女たちとは違って、主の十字架、埋葬、墓という「そこ」にいることはできません。しかし、そこにいたら何を思うのだろうか考え黙想する時を、この受難とイースターに持ちたいと思います。


何を見るか

2016年03月24日 | アモス書

アモス書 9章

 アモス書の終章から考えたのは、見るということ。

 アモスは祭壇の傍らに立っておられる主を見ました。主はアモスに神殿の敷居が震えるようにとお命じになります。神のさばきが始まるのです。一方、さばきの中で人々は主の目を避けてコソコソ隠れます。主の臨在をしっかり見るアモスと主の目を避ける人々の姿が対照的です。そして神の目は、罪を犯したイスラエルに向けられているとも8節にあります。

 厳しいさばきの宣告に続き、この章には回復も約束されています。国が再興され、豊かな自然が訪れ、作物は豊かな実りをもたらします。そして、二度と主はそこに住む者を引き抜くことをなさらないというのです。ここにあるのはまず、キリストがおいでになってもたらされる救いについての預言であり、やがてキリストが再びおいでになることによって実現する回復であり繁栄です。

 一昨日のテロについての報道を見聞きする中で、主がこれをどのようにご覧になっているのだろうかと考えました。私は何を、そして誰を見なければならないのかということについても思いました。みことばのききんがくることを憂えて、みことばを待ち望む時が来るのではないかとの期待も抱くのです。

 

 


追い求めているもの

2016年03月23日 | アモス書

アモス書 8章

 きのうのブリュッセルでのテロで、多数の死傷者ができました。巻き添えになった方のご家族や友を主が慰め、守ってくださるようにと祈ります。

 繁栄に酔う北王国イスラエルには、神を覚え、あがめる新月の祭りや安息日が終わるのを待ち構えているかのようにして、モノを売りたがっている者たちがいたことが5節のことばは伝えます。このような人にとっては、神を覚え礼拝する祭礼も、自分たちの利益より下位に置かれているのです。しかもその商売はあくどくて、人をだまして儲けようとする魂胆があります。

 ところが、ごまかしまでして儲けた富も、神が引き起こす天変地異によってむなしいものとなってしまいます。そして彼らにとってさらに悲惨なのは、「主のみことばを聞くことのききん」です。パンも水も欠くことがなく、贅沢に暮らす彼らにとって、神のことばを聞くということは二の次三の次のことでした。けれども、これこそ神の民が求めなければならない、求めることによって自分たちが保たれるものだったのです。

 みことばを聞くことを、どれだけ優先し、上位に置いているのかということを問われます。


緊迫の中で

2016年03月22日 | アモス書

アモス書 7章

 月曜日、家の前にある畑を整備していました。4月からこの畑を借りることになっていますので、そのための整備でしょうか。何を植えるのか、今からあれこれと考えています。

 アモスはいわゆる職業的な預言者ではなくて、「牧者であり、いちじく桑の木の栽培をして」いました。神は南王国ユダの農夫だったアモスを北王国イスラエルへのさばきのことばを伝えるためにお選びになったのです。

 祭司アマツヤは、アモスが謀反を企てているとヤロブアム王に語り、アモス自身にはここで預言をしないで自分の生まれ育った所に帰れと、半ば脅(おど)すように話しました。ところがアモスは、落ち着いてアマツヤに答えるのです。この落ち着きはどこから来るのでしょう。自分に確信がなければ、ちょっと揺さぶられると心が揺らぎます。ところがアモスは、脅されても冷静で、主のさばきのメッセージを、そしてアマツヤ自身の行く末を「あなたは汚れた地で死ぬ」と直言します。

 神に従う者の落ち着きについて、いろいろ考えました。

 失敗するとごまかそうとする誘惑が働きます。ごまかすことができたと思うと、別のところにほころびが生じます。そんなふうにして、落ち着きを失います。大切なのは、そんな時に「ごめんなさい」が言えるかどうか。悪いことをしたら「ごめんなさい」と言えるのは、神に従う者の姿。そこから真の再出発ができるのだと思うのです。


神は誓う

2016年03月21日 | アモス書

アモス書 6章

 

 土曜日の夕方、「福島県ゆかりの会」に参加してきました。集まったのは私も含めて福島出身者4人と、奥様とお子さん。ちょっぴりなまりの混じった会話を当地でできるとは思っていませんでした。いただいた英文の福島県のアピール文書からは、だいじょうぶ、応援してくださいとのメッセージが伝わってきます。元のように戻るのがよいのかどうかなど、文書を読みながらいろいろと考えました。

 本章には、ぜいたくな生活に明け暮れるイスラエルの富裕層の様子が伝わってきます。しかし、その豊かさは主を自分たちの心から締め出すことへとつながり、緩んだ心は緊迫感などありません。そのような彼らの様子を主はつぶさにご覧になっておられます。

 「神である主は、ご自分にかけて誓われる」という8節のことばを心に留めました。神は何をお誓いになるのでしょうか。彼らを罪ゆえに、一つの民に攻め入らせて遙かかなたに引いて行ってしまうことを、です。人の誓いには、当てにならないものも多いのですが、主がお誓いになったことは必ずそのとおりになるのですから、「ご自分にかけて誓われる」とは恐ろしいことばです。

 それとともに、罪人である私たちを救おうとお誓いになった神は、ひとり子イエス・キリストをこの世界にお遣わしになり、十字架にかけてくださったのだということをも、思うのです。


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