みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

急いで降りて来なさい

2015年09月24日 | ルカの福音書

ルカの福音書 19章1−10節

 「みことばの光」はきょうからしばらくルカの福音書を読みます。今回は19、20章を読むことになっていますが、19章初めに登場するのはザアカイ。

 ザアカイの話はどこかユーモラスなところがありますね。ルカはザアカイについて、取税人のかしらで金持ち、それに背が低かったと紹介します。そして背が低かったザアカイがいちじく桑の木の上で主イエスと顔を合わせるというのですから、情景が目に浮かんでくるようです。

 3節の「彼は、イエスがどんな方か見ようとしたが、背が低かったので、群衆のために見ることができなかった」ということばには、エリコでザアカイが普段どう思われていたのかが現れています。「見ようとしたが」ということばには繰り返ししたという意味が込められています。彼は何度も見ようとしたのです。けれども、群衆に遮られたのです。ここに普段彼がどのように思われていたかが現れます。もし、評判の良い人物ならば、背が低いザアカイが「ちょっと前に行かせてください」と願ったら、出してもらえたのかもしれない…などと想像してしまいます。

 けれども、そんなザアカイに会いたいと思っていたのが主イエス。「きょうは、あなたの家に泊まることにしてあるから」ということばは、考えようによってはずいぶんと図々しい感じがしませんか。本人が知らないうちに、泊まることに決めているよというのですから…。

 しかし、この一言がザアカイを変えます。ザアカイがイエスのことばを聞いて、急いで木から降りたというところに、彼の主イエスへの信仰を見ることができます。

 何か、とても嬉しくなる出来事です。

 *写真はエリコにあるいちじく桑の木


主は私とともにあって

2015年09月23日 | エレミヤ書

エレミヤ書 20章

 昨日は冷たい雨が時折激しく降りましたが、夕方には青空が雲の切れ目から見えるまでになりました。残念なことに、公園へは行けませんでした。私は毛糸のベスト、妻はフリースを着てすっかり冬支度です。まだ9月なのに…。日本は「シルバーウィーク」と伺っています。どのようなお休みをお過ごしですか。

 主の宮に立って、エルサレムが神のさばきに会うと告げたために、エレミヤはついに主の宮のつかさをしていたパシュフルによって捕らえられ、打たれ、足かせにつながれてしまいます。エレミヤはまるでエルサレムのすべてを敵に回してしまったかのようです。けれども彼は決してひるまず、パシュフルがバビロンで殺されると告げるのです。

 しかし、エレミヤが人間として何を言われても、どんなに社会から、親戚から疎外されても決して倒されることのない強じんな心を持った「スーパーマン」だったのではないということが、この章の後半のエレミヤの祈りからわかります。

 エレミヤは孤独と苦しみで極限にいます。主に、「あなたが惑わしたので…」とまで言っているのですから、その苦しみがどれほどのものだったかが伝わってきます。自分がこの世に生まれてこない方がよかったとも言っています。

 そんなエレミヤですが、周りの攻撃にあっても倒れません。それは、エレミヤとともにいる主が彼に力を与え、支えておられるからです。本人はこんなに辛い目に会うのならば、「もう主の名で語るまい」と思うのですが、その主のことばが彼の心のうちで燃える火のようになってしまっておけないと言っています。

 さらに、「主は私とともに」あるので、どんなにひどいことをする者がいても、自分は倒されないとまで言います。それは彼が強いからではなくて、弱い彼とともにおられるお方が強いからです。

 弱いが強い、それが信仰者の姿なのだと教えられます。

 

 


そこでエレミヤは…

2015年09月22日 | エレミヤ書

エレミヤ書 19章

 きのうの夕方、いつもの公園で、走ったりアスレチックをしたりしてきました。公園の東の方には、テニスコートや、サッカーグランドなどがあるのですが、子どもたちから大人までが練習していました。公園も木々が少しずつ秋色に染まりつつあります。

 エレミヤが焼き物のびんを買って向かったベン・ヒノムの谷には、かつて、アハズ、マナセというユダの王が幼児を殺して焼いたというトフェテがありました。トフェテとは「焼く所」「オーブン」という意味のようです。おぞましいことが行われたその所を、ヨシヤ王が使用できないように粉々にしたと列王記に記されています。「彼(ヨシヤ王)は、ベン・ヒノムの谷にあるトフェテを汚し、だれも自分の息子や娘に火の中をくぐらせて、モレクにささげることのないようにした。」(列王記第2 23章10節)

 エレミヤはその場所で、土の焼き物のびんを粉々に砕くのです。それは、ユダとエルサレムがさばきによって粉々にされることを象徴していました。エレミヤは神のさばきが必ず起こることを同行者に告げます。さらに、彼は主の宮の庭で、主がエルサレムにわざわいをもたらすことを告げたのです。

 「そこでエレミヤは…」との14節のことばに目を留めました。彼は、ここでも主がせよとお命じになったとおりをし、語れと言われたとおりのことを民に語ります。この章に「預言者職に生きるエレミヤ」という見出しをつけた講解書があります。「務めに生きる」のは安楽なことではないと心探られます。


わたしの手の中にある

2015年09月21日 | エレミヤ書

エレミヤ書 18章

 日曜日の礼拝の帰路、妻が自宅まで車を運転しました。助手席に乗る者はちょっぴりドキドキでしたが、無事に帰宅。日曜日は道路も空いていて、ちょうどよい練習になります。大きな前進だと思います。

 主はエレミヤを陶器師の家に行かせました。そこでエレミヤは陶器師が制作中の器をこわして気に入った他の器に作り替える様子を見るのです。そこには、主からのメッセージが込められていました。それは、イスラエルが主の手の中にあって、壊されるのも作られるも意のままだということなのです。ですから、ここでも主はエレミヤを通してユダとエルサレムの人々に、それぞれが悪の位置から立ち帰って、行いをわざを改めるようにとお語りになるのです。

 ところが彼らは言います。「だめだ。私たちは自分の計画に従い、おのおの悪いかたくなな心のままに行うのだから」と。主はユダの人々とエルサレムの住民を攻める計画を立てているとお告げになるのに対し、彼らは、自分たちの計画をするのだと受け入れないのです。さらに、彼らの計画の中には預言者エレミヤを倒すというものがあったのです。自分の計画を妨げようとする者は、相手が預言者エレミヤであろうが、神であろうが「だめだ」と拒むのです。

 そのような中で、エレミヤは祈ります。エレミヤはずっと、民のためにとりなし、なんとかさばきをくださるのを思いとどまってほしいと願い求めてきたのです。そのエレミヤの思いを知ってか知らずか、彼らは自分たちの計画を妨げる邪魔者だからという理由で、エレミヤを亡き者にしようと計画を立てました。

 「主のはかりごとだけが成る」との箴言19章21節のことばを思います。


苦難の日の私の逃げ場

2015年09月19日 | エレミヤ書

エレミヤ書 16章

 急に朝夕が寒くなって、私はセーター、妻はフリースを着ています。色づいてきた木の葉もちらほら見られるようになりました。きのうの夕食にはカボチャスープを作りました。「Hokkaido」というブランドのカボチャですが、今回はちょっぴり外れ。そこでスープにしてみたら…美味しくいただきました。

 預言者エレミヤは、神のことばをまっすぐに伝えるだけではなくて、個人の生活においても神のことばに従いました。

 この章には、エレミヤがどのような命令を神から受けたのかが書かれます。まず、彼は結婚を禁じられました。神のさばきが近づいているので、普段の生活に心を奪われないようにとの理由です。また、葬儀への参列も禁じられました。家族を失って悲しんでいる親しい人を訪ね、葬儀に参列するのは人と人との間の大切な礼儀です。さらには宴席に連なることも禁じられました。悲しみも喜びも取り去られる時、嘆きで一色になる時が来るからなのです。

 エレミヤの孤独を思います。神のことばを伝えながらも、耳を傾けようとしない民に歓迎されず嫌われていたことに輪をかけるように、つき合いを禁じられるのは彼の孤独に追い打ちをかけるようです。

 そのようなエレミヤにとっての望みとは、厳しいさばきの向こうに回復の希望の光を見ることではなかったかと考えます。そして、彼自身にとって主は孤独と恐れという苦難の日の「私の逃げ場」だったのです。


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