みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

十字架の前に

2014年08月25日 | マタイの福音書
マタイの福音書27章57?66節


 土日、「夏キャンプ2014」という小学生のお泊まり会が教会でありました。
 「英語聖書クラス」のメンバー8名が「合宿」です。ゲーム、お風呂(近所の日帰り温泉経)、夕食(教会の「おばちゃん」たちが作ってくれました)、聖書のお話、花火、就寝…と土曜日のプログラムは進み、日曜日は礼拝に参加して解散です。みんな、とってもよくお話を聞いていました。部屋の中にテントを張って、キャンプ体験もできました。
 子どもたちの夏休みもあと少し。いや、学校が始まっている地方もあるのですね。

 一人の人物を、いろいろな角度から見ると全体像が浮かび上がってきます。
 アリマタヤのヨセフについては、四つの福音書すべてに紹介されていますので、並べてみます。

 「夕方になって、 アリマタヤの金持ちでヨセフという人が来た。 彼もイエスの弟子になっていた。」(マタイ27章57節)
 「アリマタヤのヨセフは、 思い切ってピラトのところに行き、 イエスのからだの下げ渡しを願った。 ヨセフは有力な議員であり、 みずからも神の国を待ち望んでいた人であった。」(マルコの福音書15章43節)
 「この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった。 彼は、 アリマタヤというユダヤ人の町の人で、 神の国を待ち望んでいた。」(ルカの福音書23章51節)
 「そのあとで、 イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、 イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った。 それで、 ピラトは許可を与えた。 そこで彼は来て、 イエスのからだを取り降ろした。」(ヨハネの福音書19章38節)

 十字架は、ヨセフの隠れた信仰を明らかにし、主のために生きるきっかけをもたらしました。

 「人々はその(十字架の)死を目の当たりにして、様々な働きをする」と「みことばの光」にあります。主イエスの十字架は「私」に何をもたらしたのでしょう。
   


沈黙が語るもの

2014年08月23日 | マタイの福音書
マタイの福音書27章27-44節


 2週間ほど夏休みをしておりました朝歩き。今朝から再開しました。いつもの「ランニング区間」。不安でしたが、気持ちよく走ることができ、よい汗をかきました。しばらく歩き走っていない間に、景色はすっかり夏の終わり。公園ではセミの鳴き声が「もうすぐ夏も終わりだよ」と響いていました。

 兵士たちは主イエスをいたぶって「王さまごっこ」を強制します。けれどもその間、イエスは何も話さず何もなさいません。
 十字架につけられた主イエスを見て、道行く人々は「神の子なら自分を救ってみろ。十字架から降りて来い」と、イエスをののしります。けれどもその間、イエスは何も話さず何もなさいません。
 祭司長たちは、「神のお気に入りなら救ってもらえ。自分で神の子だと名乗っているのだから」とあざけります。けれどもその間、イエスは何も話さす何もなさいません。
 
 騒ぎ立てののしりあざける人々に囲まれながらも、主イエスは沈黙を保ちます。この沈黙について、「主イエスは最も弱い人となられた」と「みことばの光」が解いています。
 自分は、ローマの兵士のひとりのようなのだろうか、クレネ人シモンのようなのだろか、それとも道行く人々のひとりのよう、祭司長たちのようなのだろうか、それとも、主イエスといっしょに十字架につけられた強盗のようなのだろうかと、立ち止まって黙想してみます。十字架への道を歩まれる主イエスを囲む、騒々しい人々の中に間違いなく自分の姿を認めました。その私のために主イエスは、この間じっと黙しておられたのです。

 「あなたのために…」というメッセージが届きます。
     


十字架につけろ

2014年08月22日 | マタイの福音書
マタイの福音書27章11-26節


 西日本や北日本は豪雨で多くの被害が出ています。大切な人や物を失われた方々に主の支えがありますように。
 
 きのうは、夏期聖書講座を終えたあと、近くのインターから松原湖に向かいました。群馬⇒長野⇒埼玉とかなり遠回りをして帰宅したということになります。松原湖バイブルキャンプアウトキャンプ場で行われている「CSKアウトキャンプ」を訪問したのです。

 皆さんが笑顔で迎えてくれました。とてもよいキャンプだなぁということが、よくわかりました。標高1100メートルはやはり涼しいですね。Img_2214

 「十字架につけろ」との声に押されてピラトは何も罪もない主イエスを、しかもイエスには何も罪がないとピラト自身わかっていたにもかかわらず、十字架につけるために引き渡しました。
 本日の「みことばの光」の「黙想」は、「自分の内にも、ピラトが犯したような罪はないだろうか。群衆が犯したような罪はないだろうか。権力者たちが犯したような罪はないだろうか」です。

 事実をねじ曲げようとする声に抗(あらが)うことができず、結局は大声に負けて妥協してしまうようなこと、よく調べも考えもしないで人の声に乗ってだれかを攻撃するようなこと、偏見によって塗り固めて人をねたみようなこと、…思い当たらないと言えるようなものは何もないことに、気づきます。

 「十字架につけろ」は付和雷同した群衆たちの叫びですが、それはまた、罪人たちの心の叫びのようにも響きます。「私を罪から救ってほしい」との…。そのような中で、主イエスは十字架への道を一歩ずつ進んでおられたのです。
     


相手を間違えた

2014年08月21日 | マタイの福音書
マタイの福音書27章1-10節


 夏期聖書講座はきょうが最終日。おいしいものをいただいて、みことばをじっくりいただいて、主にある方々との交わりをいただいて、温泉に入って…と良い時を過ごしています。
 いろいろなことを脇に置いて、みことばを集中して学ぶことができるのはさいわいですね。

 ユダは、自分の裏切りが主イエスを死刑に追いやるとは思ってもみなかったのでしょうか。自分のしたことを後悔しました。そして、後悔を行動に移します。「みことばの光」は、「ただ激しく泣いただけのペテロに比べると、彼は実に行動的であった」と書いています。

 祭司長たちに銀貨を返そうとして、「私は罪を犯した。罪のない人の血を売ったりして」と言います。しかし、このことばは、彼らにではなくて、別のお方の前で申し上げるものだったのではないか、と思います。案の定、祭司長たちは「私たちの知ったことか。自分で始末することだ」とユダに言います。

 彼の後悔は相手を間違えていたのです。

 マタイは「預言者エレミヤを通して言われたことが成就した」と書きますが、ここで引用されている旧約聖書はゼカリヤ書11章12、13節。ゼカリヤ書の預言を、陶器師についての預言をしているエレミヤ書の心を表すものだとしたのではないでしょうか。
      


あなたの言うとおり

2014年08月20日 | マタイの福音書
マタイの福音書26章57-75節


 きのうから、「夏期聖書講座」で藪塚温泉に来ています。自宅からちょうど1時間。近くにはこんもりとした木々に覆われた山があります。昨夜の講座のあと、最上階にあるお風呂に入りましたが、良かったですね。三日間で、「ヨブ記」「詩篇」「箴言」「伝道者の書」「雅歌」の五つの聖書を一つずつ取り上げるという趣旨の講座です。
 持参した「みことばの光」の10冊ずつの「ヨブ記」と「イザヤ書」、一日目にして売り切れてしまいました。もっと持って来ればよかった!

 きょうの箇所には、二つの出来事が記されています。どちらも大祭司の家で起こりました。Photo(大祭司の家に立つ「あの人を知りません」と言うペテロの像)

 主イエスは尋問を受けておられました。大祭司とイエスとのやりとりでは、ご自分に不利な証言には沈黙を保ち、神の子キリストかとの問いには「あなたの言うとおりです」と答え、さらにご自分がメシヤとしておいでになることを明言されます。大祭司は怒り、「これでもまだ、証人は必要でしょうか」と裁判においてしてはならないことを語ります。イエスは死刑に処せられることとなります。

 ペテロは自分と主イエスとの関係について、三度問われました。「何を言っているのか。私にはわからない。」、「そんな人は知らない。」、さらに強い調子で否定して「そんな人は知らない。」が彼の答えでした。考えてみますと、ここでペテロが主イエスとの関係を認めたとからといって、どうなったのでしょうか。ターゲットはあくまでもイエスだったのですから、…。

 ここには、ペテロのために真実をお答えになる主イエス、自分のために真実を否定するペテロが描かれています。

 ルカの福音書には、ペテロが三度目に主との関係を否定した時に鶏が鳴き、主イエスが振り向いてペテロを見つめられた、とあります(ルカ22章61節)。ペテロは、いつくしみをもってご覧になる主イエスのまなざしを受けて、彼は激しく泣きます。
 


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