コリント人への手紙第一 3章10−23節
いつものように公園内を歩いて、クルミの木を見るとその下で探索。落ちている実を靴で潰して中身を確かめます。今年は確かにたくさんの実がついているのですが、「外れ」が多いです。夏のカラカラ陽気のためか、不作だと聞きました。リスなどのために、拾わずにおくことにします。
教会の功労者や指導者たちを勝手に祭り上げて、仲間割れしていたのがコリントの教会。この箇所でパウロは、まず自分がどのようなことをコリント教会のためにしたのかを明確にしています。それは、キリストという土台を据えたこと。自分ではないとはっきりと伝えています。キリスト以外の土台は、教会にはありえないのだというのです。
土台は完成した建物の見ばえの良さと比べてみたら、そんなにも目立たないものです。けれども、土台こそ建物を支えるもの。教会の(建物のことではなく)土台はキリストおひとりなのです。
「すべてはあなたがたのもの」という22節のことばが心に留まります。この節にはびっくりするようなことが書かれています。分派を引き起こす者たちが勝手にあがめていたパウロ、アポロ、ケファ(ペテロ)だけでなく、世界、いのち、死、現在のもの、未来のもの、それらが「あなたがたのもの」だというのです。教会が誕生し、成長することの中で、神がこれらのものを教会に賜わったのだということとして読みました。
これによって、特定の個人をかしらに立てる愚かさに気づいてほしいということなのでしょう。
しかし、これだけで終わってしまったら話は別のほうに行ってしまいます。パウロは、「あなたがたはキリストのもの、キリストは神のものです」と続けています。あがめるべきお方はキリストの神おひとりだというのです。