ペテロの手紙第二 3章
だれにでも平等に与えられているのが「時」だとよく言われます。けれども、人によって時の感じかたはまちまちですし、同じ人でもゆっくりと時が進むと感じる場合と、矢のように…という場合とがあります。これから、川越にある高齢者の施設に向かうのですが、今までに間に合うかと心配することが何度かありました。そんな場合には、時間が速く進んでいるのではないかと感じてしまいます(もっとも、自分がいつもどおりに家を出ればよいだけのことなのですが…)。
「みことばの光」が書くように、この手紙の読者の中には、キリストはどうして早く来てくださらないのかと心配している信仰者たちがいました。外からは迫害、内にはにせ教師という危機に際して、キリストが早くおいでになって教会を正してほしいとの願いが高まったのでしょう。特に、自分たちの乱れた生活に浸り切っていたにせ教師は、4節にあるように「何も変わりはしないではないか」とうそぶいていました。
主イエスが私たちの期待したとおりに行動なさらないのはよく考えれば当たり前のこと。そうとはわかっていながらも、やはり「早く来てください」と心が急(せ)きます。しかし、それは主の忍耐であって、すべての人が悔い改めに進むのを望んでおられるからなのだとペテロは書くのです。
主を三度も否むという大失敗をしようとしているペテロに主イエスは、「わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」とおっしゃいました(ルカの福音書22章32節)。主の忍耐を説くペテロは、あの時主イエスが自分に語ってくださったことばを心に刻んでいたのではないでしょうか。
主の忍耐を思います。