列王記第二 23章1−24節
「このような過越のいけにえがささげられたことはなかった。」23章22節
昨日いただいたメールに、ヨシヤ王に名前が似ているお孫さんが9歳の誕生日を迎えたとありました。改めてヨシヤ王は8歳で王になったのなぁと、驚きました。
この部分には、律法の書が発見され、それを読んだヨシヤ王が何を為すべきかについて心が定まり、次々に偶像を破壊していく様子が描かれています。
まず目に留まったのは、ヨシヤが律法の書をすべての民に読み聞かせたということ。「下の者から上の者まで」と2節にあります。これは、自分の確信を押しつけようとしたのではなくて、イスラエルの民は何の上に立つのかを御霊によって知らされたゆえの行動です。「契約」ということばがそのことを伝えています。
驚くのは、本来神お一人を礼拝すべき主の宮に、雑多な神々が置かれていたということです。王がどのように歩むかは、国の方向を決定づけます。歴代の王たちは周辺諸国の神々を作っては、主の宮に「同居」させるのです。それを何とも思わずに、普通の風景だとしてしまう恐さがあるように思いました。ヨシヤはそれを異常だと見たのでしょう。何に照らして…? 神のことばに、です。
聖書を読むことや説教を聴くことが、ただの知的、霊的な日課のようにとどまってはいないか、とも考えます。