詩篇 122篇
月曜日は、ミュンヘンのいくつかの教会を訪ねました。「ペテロ教会」には、その名のとおりにペテロにちなんだエピソードが随所にありました。天井には、伝説となっている、逆さ十字架につけらたペテロの姿が描かれています。
5月最後の日は、「都上りの歌」の三番目にある詩篇122篇を読みます。1節のことばに目が留まりました。ここには、「人々」と「私」がいます。「私」の喜びは、人々が「さあ 主の家に行こう」と言ったことなのです。一緒に主を礼拝するために、都に上る喜び。ともに旅をするのでしょう。神を礼拝するということを何よりの喜びとする人たちがいる、これはクリスチャンのつながりの基本です。
ここから私は、何が喜びなのか、何を喜んでいるのだろうかと自分に問いました。きょうの「みことばの光」が触れているように、この2年間教会は大きな試みを通されました。しかも、限られた地域ではなくて、世界大の試練でした。一緒に集まってこその教会が、集まってはならないことになったのです。
しかし、多くの教会は「集まる」ということを止めませんでした。これまでのような集まり方はできなくても、集まろうと励まし合いました。感染症が落ち着きを見せる中、実際に集まろうということに大きな力が必要に思います。そのような今、「さあ 主の家に行こう」と互いに声をかける、それはもちろん、一緒に神を礼拝しようという意味です。
それを無上の喜びとするのが教会なのです。