出エジプト記 9章1−21節
木曜日は「みことばの光」4月号の編集日。いつもですと、月一度の編集日には8時間の時差のゆえに早朝3時からの打ち合わせですが、今回は一つの場所に集まって顔と顔を合せて作業をすることができました。
この箇所には、エジプトに下されるわざわいのうち、非常に重い疫病、膿の出る腫れ物、非常に激しい雹の三つが描かれています。
本日の「みことばの光」が書いていますが、一連のわざわいの記事の中で、主は一貫してイスラエルの民を「わたしの民」と呼んでおられることに心が留まります。神はイスラエルの民を「わたしの民」としてお選びになりました。それはすでに創世記で展開されてきたことです。アブラハム、イサク、ヤコブ、そしてヨセフ…。彼らが今エジプトにいて苦しみに遭っているのは、ヨセフが兄弟の恨みを買ってエジプトに奴隷として売られたことが最初のきっかけでした。
この間神は、イスラエルの民にずっと眼と注いでこられ、ついに彼らをエジプトから連れ出すために、モーセをお立てになったのです。ファラオの心の頑なさのゆえに、出エジプトの準備は表向きは遅々として進まないように思えますが、そうではありません。
主はご自分と張り合うように心を頑なにしているファラオを大きく揺さぶっています。20節には、「ファラオの家臣のうちで主のことばを恐れた者は、しもべたちと家畜を家に避難させた」とありますので、度重なるわざわいに、ファラオ側の人々の中にも、主のことばの力を恐れ、従う者が出てきたことがわかるのです。
神のことばを聞いて恐れて従う者と、心に留めなかった者との違いはここでは明らか。私たちを「わたしの民」と呼んでくださり、いのちへの道へと導く主のことばにしたがないのは愚かなことだと心から思うのです。