ヨハネの黙示録 14章1−13節
礼拝、祈祷会の場所として貸してくださっている教会の方から、今度の日曜日の礼拝では音を立てないようにしてほしいという電話が来たそうです。理由は夕方にゴスペルコンサートがあり、そのための「ゲネプロ」(最後のリハーサル)の時間とかち合うからとのことです。さあ、どうしましょう。奏楽なしで、賛美は…?
ヨハネの目は山の上へと移ります。これまでとは違った光景が彼の目の前に広がったことでしょう。そこには子羊が、そして十四万四千人の人々がいました。彼らの額には子羊の名と子羊の父の名が記されています。それは、前章にある「右の手あるいは額に(獣の)刻印を受け」ていた地に住む者たちとは対照的です。「大水のとどろきのようであり…」と言われているのは、神の声を表わしています。⇒1章15節参照
十四万四千人の人々とは、前にも書きましたが、私はイエス・キリストを主とあがめるすべての教会を指している象徴的な数字だと考えます。心に留めたのは、彼らが新しい歌を歌ったということば。この歌は、地上から贖われた十四万四千人の他は学ぶことができないものだとされています。なぜほかの人々が学べないのか、歌えないのかについての理由は記されていません。けれども、「贖われた」ということばに鍵があるように思えます。つまり、イエスの十字架の贖いを信じることなしには歌えないのです。
イエスを信じる前と信じた後で何が変わったかというと、讃美歌を歌うようになったというのがその一つです。世界には数え切れないほどの歌があり、今も生まれ続けています。上手下手ということではなくて、メロディがおぼつかなくても、神をたたえる歌を心から口ずさむことができるのは、贖いを受けた者たちなのだと、心からうなずくことができます。
今度の日曜の礼拝は、そのような点でチャレンジに満ちたものになりそうです。
[おわびと訂正]
本日(12月7日)の「みことばの光」に誤りがありました。編集者による、編集上のミスによるものです。おわびいたします。そして、次のように訂正いたします。
19ページ7行目 (誤)③第三の御使いが神の怒りの杯を飲む(9−11) ⇒ (正)③第三の御使いが「神の怒りの杯を飲む」と告げる(9−11)