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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

回復への一歩

2023年05月11日 | 創世記

創世記 42章1−17節

 眼鏡の小さなネジが取れたので、眼鏡屋さんへ。あれこれ見てくださり「フレームが歪んでいますね」と言って調整し、ネジも新しいものに取り替えてくださいました。修理費は…と尋ねると「もちろんいりません」とのこと。無料だということだけでなく、何かとても得した気持ちになりました。

 「ヨセフ物語」では、兄によってエジプトに奴隷として売られたヨセフが、やがてファラオに次ぐ地位を獲得するという、いわゆる成功物語ではないということが大切なポイントだと思います。兄たちとヨセフとの関係を、父と子どもたちの関係を、神はあるべきかたちに戻そうとしておられる、この箇所はその具体的な一歩です。

 家族であっても、いや、家族であるからこそ、時に互いに背を向けたり憎み合ったりということが起こります。夫婦でも通い合わずにいるということもあるでしょう。しかし、神はそれで良いと考えてはおられません。

 ここでヨセフは、兄たちに厳しい姿勢で接します。これまでの恨みを晴らそうとしてのことでしょうか。今日の「みことばの光」は「ヨセフは……神のご計画に目が開かれてきている」とありました。でも、自分が兄たちよりも優位にあるとおごり高ぶってはいないのです。

 「あなたがたはわからないだろうが、私にはわかっている」というような思いに走る恐れが自分にあることを、ヨセフは知らされていたのではないだろうかと考えます。

 「霊的高慢」……鼻持ちならないものですね。


神が…

2023年05月10日 | 創世記

創世記 41章46−57節

 3泊4日の西への旅を終えて無事帰宅。最終日は道頓堀、千日前、難波、通天閣、そして天王寺と大阪を歩き、写真で見たことのある場所を実際に訪ねることができました。東日本では売られなくなったお菓子のキャラクターにも会いました。そして締めくくりは車窓からの富士山。

 ここは、ファラオの見た夢をヨセフが解き明かしたとおりに、エジプトに七年間の豊作が、その後七年間の飢饉が訪れたこと、その出来事に挟まれるように、ヨセフの二人の子どもが誕生したことが書かれています。マナセは「忘れる」に由来する名前、エフライムは「実り多い」からのことばです。

 今日の「みことばの光」が書くように、これらの名前の主語が神であることに目が留まります。ヨセフが自分の苦しみを忘れたということではなく、ヨセフが実りをもたらしたという思いを、子どもたちの名に込めてはいません。彼は神が自分の苦しみを忘れさせ、神が自分を実り多いものにしてくださったと言うのです。

 神を主語にして、自分に起こる出来事を考えてみることが必要だと、ここから教えられます。それほど私たちが、物事を自分中心に考えているということに気づかされます。自分が置かれている位置を、違う視点から見ることができるならどのような違いがあるのだろうかと、立ち止まってみるのが必要だ、ということです。


神の霊が宿る人

2023年05月09日 | 創世記

創世記 41章25―45節

 月曜日、お昼には久しぶりにお会いした方と一緒に聖書の時間。その後これまた久しぶりに会った友に案内されて、童謡「赤とんぼ」ゆかりの地を訪ねました。古い家並みが建ち並ぶ落ちついた場所でした。今回はサーッと眺めただけでしたが、次に訪ねる時には、ゆっくりと歩きたいと思いました。今日自宅に戻ります。

 「ファラオの夢を解き明かすヨセフ」の後半。ここでヨセフは夢の解き明かしを王たちの前でします。それだけでなく、何を行うべきなのかについて具体的な提言もしています。それを聞いたファラオは、ヨセフを「神の霊が宿る人」だと言います。ファラオはここで、ヨセフの解き明かしと提案とは神によるものだと信じていたのです。

 エジプトに来た時には奴隷だったヨセフは、30歳のこの時エジプトでファラオの次の地位に上げられます。兄たちと父が自分にひざまずくと夢を解き明かした時、ヨセフは17歳でした。この間、神はヨセフとともにおられたのです。

 訪ねた友の家で、さまざまな課題を抱えた青年たちと会いました。ヨセフがそうであったように、挑戦に満ちた一人びとりにも神がともにおられることを思い、祈りました。いつの日か、神が彼らを高く上げてくださるように……と。


二年後……

2023年05月08日 | 創世記

創世記 41章1−24節

 週末、懐かしい方々との再会が続きました。時間の進みが速いように思える経験を……。美味しいものもたくさんいただきました。そして、親しい人との会話はご馳走なのですね。

 この箇所は「それから二年後」ということばに始まります。何が起こってから二年後なのかは、すぐ前に何が起こったかで確かめることができます。牢の中でヨセフは、ファラオのそばにいる献酌官長と料理官長の夢を解き明かしたところ、そのとおりのことが起こり、献酌官長は再びファラオの側近として仕えることができました。

 その際、献酌官長はヨセフから、「あなたが幸せになったときには、私を思い出してください」とのことばを聞いていたのですが、ヨセフのことをすっかり忘れてしまったのです。ですから、二年後とは献酌官長がヨセフのことを思い出すまでの期間なのです。

 この二年間は、ヨセフにとって大切な訓練の時でした。と、このように書くのは簡単なのですが、さて自分はそんなふうに存在を忘れられてしまったら、2年間待つことができるのだろうかと考えるのです。もしかしたらふてくされてしまうか、または希望を捨ててしまうかもしれません。

 土曜日に美味しいうどんをいただきました。お店の方に水のお替わりをお願いしたのですが、忙しいので忘れられてしまいました。そんな時、自分には忍耐が欠けているとつくづく思うのです。

 ヨセフがファラオの前に連れて来られた時に、ファラオの求めに即座に答えることができたのは、ヨセフはまち続けることができたからではないでしょうか。ここでヨセフは、神からの良き訓練を受けています。


神がともにおられるとは

2023年05月06日 | 創世記

創世記 39章

 大切な方を訪ねるため、以前通っていた道を思い出しながら運転しました。目的地に着くと、隣の建物は取り壊されています。見慣れた風景がそこにないというのは、不思議な体験です。

 奴隷として売られてエジプトに来たヨセフ。しかし、これですべてが終わったのではありません。新しいことが彼のうちに始まったのです。39章は、主がヨセフとともにおられたということばの間に、ポティファルの妻がヨセフを誘惑する出来事が挟まれています。主がともにおられた、主が彼を成功させてくださったというのはこの章のキーワード。

 だからと言って、物事がヨセフの思うままに進んだというわけではありません。誘惑され、偽りのことばによって投獄されます。ヨセフ自身はこれらの件で一つとしてやましいことをしてはいません。しかし、ここでヨセフは「濡れ衣です!」と事の真相を主人に、また周囲に訴えるという道を踏みません。

 この章には「成功」ということばが何回か用いられています。他の翻訳聖書は「うまく事を運んだ」と訳されます。物事を上手にやり遂げるという意味ですが、聖書はそれをヨセフの力量や努力だとはせずに、神がともにおられることによると伝えています。それでは、投獄されたということは、神がともにおられなかったのかというと、そうではありません。

 牢にあっても、神はヨセフとともにおられ成功させてくださるのです。神が自分とともにおられるという圧倒的に素晴らしい事実を、どれだけ受け止め喜んでいるのだろうかと、ここから問われます。


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