創世記 42章1−17節
眼鏡の小さなネジが取れたので、眼鏡屋さんへ。あれこれ見てくださり「フレームが歪んでいますね」と言って調整し、ネジも新しいものに取り替えてくださいました。修理費は…と尋ねると「もちろんいりません」とのこと。無料だということだけでなく、何かとても得した気持ちになりました。
「ヨセフ物語」では、兄によってエジプトに奴隷として売られたヨセフが、やがてファラオに次ぐ地位を獲得するという、いわゆる成功物語ではないということが大切なポイントだと思います。兄たちとヨセフとの関係を、父と子どもたちの関係を、神はあるべきかたちに戻そうとしておられる、この箇所はその具体的な一歩です。
家族であっても、いや、家族であるからこそ、時に互いに背を向けたり憎み合ったりということが起こります。夫婦でも通い合わずにいるということもあるでしょう。しかし、神はそれで良いと考えてはおられません。
ここでヨセフは、兄たちに厳しい姿勢で接します。これまでの恨みを晴らそうとしてのことでしょうか。今日の「みことばの光」は「ヨセフは……神のご計画に目が開かれてきている」とありました。でも、自分が兄たちよりも優位にあるとおごり高ぶってはいないのです。
「あなたがたはわからないだろうが、私にはわかっている」というような思いに走る恐れが自分にあることを、ヨセフは知らされていたのではないだろうかと考えます。
「霊的高慢」……鼻持ちならないものですね。