創世記 38章12−30節
懐かしい方とばったり会うなどということがあります。昨日も8年ぶりの再会が……、そして今日も8年ぶりの再会が予定されています。
昨日すでに26節に言及しましたが、ここではタマルの堂々とした態度や主張に際して、ユダが自分に非を認めたというのが目に留める一つの点だと思います。もしも、ユダがタマルのことばをさえぎったり、握りつぶしたりしたのならば、自分の対面をとりあえずは繕えるかもしれませんが、ユダ自身は相変わらず何も変わらないというままでしょう。
ユダは、自分の体面が傷つけられるような経験をしているのですが、「あの女は私よりも正しい」また「私が彼女にシェラを与えなかったことによる」ということばは、ユダを真の意味で守ったのです。昨日も本欄で書きましたが、この時のユダの軌道修正は後に、彼が家族の「再生」のために用いられる準備でもありました。
もう一つの注目は、ユダとタマルとの間に産まれた双子のペレツとゼラフの名が、ユダとタマルの名とともに救い主イエスに至る系図に治められていることです。イエスの系図は正しい人々のリストではありません。一人一人にはさまざまな課題がありました。いや、一人一人は例外なく罪ある者たちでした。救い主はその子孫としてお生まれになったのです。
神はユダとタマルのこのような出来事をさえ、やがて起こることのための備えとされるお方なのだと考えると、神の大きな恵みとあわれみを覚えます。たいへんありがたいことです。