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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

ユダに、タマルによって

2023年05月05日 | 創世記

創世記 38章12−30節

 懐かしい方とばったり会うなどということがあります。昨日も8年ぶりの再会が……、そして今日も8年ぶりの再会が予定されています。

 昨日すでに26節に言及しましたが、ここではタマルの堂々とした態度や主張に際して、ユダが自分に非を認めたというのが目に留める一つの点だと思います。もしも、ユダがタマルのことばをさえぎったり、握りつぶしたりしたのならば、自分の対面をとりあえずは繕えるかもしれませんが、ユダ自身は相変わらず何も変わらないというままでしょう。

 ユダは、自分の体面が傷つけられるような経験をしているのですが、「あの女は私よりも正しい」また「私が彼女にシェラを与えなかったことによる」ということばは、ユダを真の意味で守ったのです。昨日も本欄で書きましたが、この時のユダの軌道修正は後に、彼が家族の「再生」のために用いられる準備でもありました。

 もう一つの注目は、ユダとタマルとの間に産まれた双子のペレツとゼラフの名が、ユダとタマルの名とともに救い主イエスに至る系図に治められていることです。イエスの系図は正しい人々のリストではありません。一人一人にはさまざまな課題がありました。いや、一人一人は例外なく罪ある者たちでした。救い主はその子孫としてお生まれになったのです。

 神はユダとタマルのこのような出来事をさえ、やがて起こることのための備えとされるお方なのだと考えると、神の大きな恵みとあわれみを覚えます。たいへんありがたいことです。


やがての備え

2023年05月04日 | 創世記

創世記 38章1−11節

 日本では祝日が続きます。水曜日は孫たちと映画館に。たくさんの家族連れとともに観ました。前半は居眠りも…。しかし、後半はそれなりに楽しむことができました。後で、「ちょっと眠ってしまった」と言ったら、「そうだよね」と……。ちゃんと見られていました。

 この章は、ヤコブの4番目の息子、ユダについての出来事が記録されています。ヨセフがエジプトに売られたことと、エジプトでファラオの廷臣の奴隷になったこととの間に、ユダの話が置かれているのはなぜなのだろう、と思います。

 ここはユダの荒れた姿を垣間見せられます。他の兄弟たちから離れて天幕を張ったことについては、ヨセフについての事件で兄弟たちとの間に感情的なすれ違いが生じた可能性もあります。さらにユダは、カナン人の女性シュアを妻とします。それは神との契約のうちにあるイスラエルの子どもたちにあってはならないことでした。

 また、シュアとの間に生まれた三人の息子たちも彼の心を痛ませます。長男エル、二男オナンは主に殺されます。当時は長男が子を設けずに死んだ場合は、二男が長男の妻との間に子を設ける……さらに三男が……ということになっていました。しかし、三男のシェラが成人しても、ユダは長男の妻タマルをシェラに与えないのです。タマルは義父ユダが、シェラとタマルの結婚を進めないので一計を案じ、ユダと結ばれようとします。嫁とは知らずにユダは、タマルと交わり、二人の子を設けるのです。

 私は、26節がユダの大きな転機になったと考えます。売春したとの話を聞いて、ユダがタマルを焼き殺そうとした時、タマルは義父からもらった物を示しました。その時、ユダは言います。

 「あの女は私よりも正しい……。」

 ユダは、この体験で神による備えをさせてもらったのではないでしょうか。やがて起こる、ヨセフと父との再会、ヨセフと自分たちとの和解という場面で、ユダは大切な役割を果たします。それが、ヨセフ物語の間にこのような出来事が挟まれている理由なのかもしれません。


思惑を超えて

2023年05月03日 | 創世記

創世記 37章18−36節

 しばらく使用していなかった自転車を、近くの自転車屋さんに持って行きました。前後のタイヤ2本を交換すればまだまだ使えるとのことで、修理してもらうことにしました。

 ここは、兄たちに憎しみの目で見られているヨセフが、死を免れ、しかしエジプトに奴隷として売り飛ばされる箇所です。聖書はこのあとヨセフがどのようになるのかが描かれており、それを読む私たちは安心して事の推移をたどることができます。

 しかし、この時のヨセフ、兄たち、ヨセフのいのちを救おうとする長男ルベン、穴に投げ込まれたヨセフを殺してしまおうという兄弟たちを説得して、奴隷と売り飛ばそうと提案するユダ、そしてヤコブが、それぞれこの時、先の見通すことのできない中で、何を思い、何を語るのだろうかとしたら、と想像してみるとどうでしょうか。

 ルベンがなぜヨセフを助けようと考えたのか、ユダあなぜヨセフを奴隷として売ろうと提案したのか、それぞれの思い、思惑がありました。ヨセフの言動に憎しみを募らせていた兄弟たちの間にも、ヨセフをどうするのかということについてさまざまな思いがあったということに、なぜか安堵します。

 しかし、歴史は人の思惑や思いを超えて動きます。神はヨセフに大きな計画を持っておられた、だからヨセフはこの時点で死ぬことがあってはならなかったのです。けれども、その神の計画はだれも予め知るのが許されてはいないのです。そこに不安や苦しみもあるのですが、簡単に絶望すべきでもないと、改めてここから思います。


心に留める父

2023年05月02日 | 創世記

創世記 37章1−17節

 月曜日は電車とバスのショートトリップを楽しみました。通過する新幹線の速度が以前よりもアップしていたので迫力満点でした。

 私たちに起こる出来事には、そうなる原因がある場合が多いのですが、この箇所に登場する家族にも、それぞれの原因と結果とが絡(から)み合っているように思います。

 ヨセフは兄たちの悪いうわさを彼らの父に告げました。その結果、彼は兄たちに恨まれるようになります。イスラエル(ヤコブ)は、年寄り子で、しかもラケルとの間に生まれた最初の子であるゆえに、ヨセフを溺愛します。それによって、兄たちはますますヨセフを憎みます。

 4節に「穏やかに話すことができなかった」ということばが目に留まります。ある人のことを思うと、その姿を見ると、平静さが失われて穏やかな態度で接したり、言葉を交わすことができないということは、決して大げさなことではありません。さらにヨセフは自分が見た夢を兄たちに告げたため、兄たちのヨセフへの憎しみはより大きなものになっていきます。その夢とは、父も兄たちも自分を伏し拝むようになるというものでしたので、父ヤコブがそして兄たちが憤るのはもっともです。

 しかし、11節には「父はこのことを心にとどめていた」とあります。父ヤコブはヨセフの夢をただのたわ言ではなく、心に掛かるものを覚えたのです。

 人と人とのやりとりの中で、特に親しい家族の間で、時には憎悪が湧きあがるようなことがあります。もちろん、当事者には反省が求められることです。しかしそこには、人と人との間の憎しみやいがみ合いということだけでは説明がつかないものがあるのだということを、ここから知らされます。

 「心にとどめる」というのは、自分の身の回りに起こる出来事を神にあって考え、受け止めるということだと思うのです。


エドム人の先祖エサウ

2023年05月01日 | 創世記

創世記 36章20−43節

 日曜日には餃子で有名な町に。礼拝後に二人の孫が出場するピアノ発表会へ。二人を含めて13人の子どもたちの演奏を楽しませていただきました。

 36章には人名が並びます。ヤコブの兄エサウに関係する名前です。エサウはヤコブとの再会の折りに、ヤコブを自分の住む地セイルに伴おうとしました。しかし、結局ヤコブはエサウと行動を共にしなかったのです。エサウの住むセイルとは、地図で確認しますと死海の南西部に位置します。

 この部分では、初めにこの地がセイルと呼ばれていた由来となるフリ人セイルの子たちの名前が並びます。つまり、エサウがこの地に移り住むようになる前に住んでいた人々です。

 次に、エサウの子孫であるエドムの王たちの名前が並びます。31節にはイエスラエル人の王が治める以前とありますので、イスラエルが王政を敷く以前からエドムには王がいたことがわかります。

 そして最後に、エサウから出た首長の名前が並んでいます。そしてこの章の終わりは「エドム人の先祖はエサウである」とあります。つまり、エサウ以前のこの地の人々の名前、そしてエサウ以後の王たちの名前、最後にエサウに近い首長たちの名前という順になります。このようにして聖書は、エサウとその一族の歴史をかなり詳しく述べるのです。

 兄ヤコブがアブラハム、イサクの後に続く神の選びの民なのだから兄エサウには触れない、というような書き方はしません。それは、すべての人、すべての民族が神によって存在しているということを伝えているのではないか、と考える大切な記述です。ともすると狭くなりやすい信仰者の視野を、このような記述は広げているように読むことができます。


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