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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

元気づけることば

2023年05月17日 | 創世記

創世記 45章

 朝、新しい滞在ビザを受け取りに行きました。時々訪れるショッピングモールの中にある市の窓口です。そう言えば、2015年に当地に来た時住民登録をしたのも、この窓口でした。無事受け取ると、急に力が抜けたような感じに…。

 ヨセフが兄弟に自分のことを明らかにして、感動の再会を果たせたのが今日の箇所。兄たちは腰が抜けるほど驚いたことでしょう。そして、自分たちがしたことに対して仕返しされるのではないかと恐れたことでしょう。しかし、ヨセフにはそんな思いは全くなかったのです。

 ここで心に留めたのはヨセフのことば。そこには「遣わす」ということばが三度用いられています。ヨセフは兄たちによってエジプトに奴隷として売られました。しかし神が自分を遣わされたと、その身に起こったことを受け止めているのです。「遣わす」とは神がご自分の働きをさせるために、ヨセフをエジプトに送ったということです。これまでのヨセフの歩みを振り返るなら、まさに「遣わす」がふさわしいのです。

 それはそれこれはこれ、自分をひどい目に遭わせた兄たちに意地悪、仕返ししたいという思いがヨセフにはなかったのだろうかと考えます。しかもこの時のヨセフは、自分をひどい目に遭わせた兄たちをどうにでもできる力がありました。しかし彼は、神が自分に与えられたファラオの次の位というエジプトでの立場を用いて、兄たちの心を神の真実へと導いたのです。

 26節の「ヨセフはまだ生きています」ということばが心に留まります。これがヤコブをどれほど元気づけたかは、その後の彼の行動が物語っています。


美しいことば

2023年05月16日 | 創世記

創世記 44章18−34節

 夕立があるとの予報を聞きながらも、空が明るかったので出かけました。予報どおり雨に降られたのですが、念のために傘を持って出たので、からだを濡らさずに済みました。野ばらが咲き始めています。

 ここにはヤコブの4番目の息子、ユダがヨセフに弁明していることばがあります。ヨセフは、袋の中に杯が見つかった者が奴隷になればいいのであり、他の者たちは父のもとに帰れと兄弟たちに言ったことばに対しての弁明です。

 ユダは、自分は帰ることができるとホッとしたのではありませんでした。彼はヨセフに三つのことを語っています。

 まず、前回エジプトを訪ねた時ヨセフが自分たちに言ったことばを繰り返しています。そして、彼らがヨセフのことばを忠実に父に伝えたことも話しているのです。誰かに何かを伝える時、私たちは自分が有利になるために、事実をゆがめてしまうようなこともします。しかし、ユダはそのようなことはしないのです。

 次に、父を思いやっています。もしも末の弟ベニヤミンがエジプトに奴隷として残されたのならば、父は悲しみながら死んでしまうと言うのです。自分のことを分かってほしいと私たちは必死になります。しかし、自分以外のことについてどれほど思いを重ねることができるのかと問われたらどうでしょうか。ユダの姿が美しいと映るのは、自分のことではなく、自分以外の人の悲しみに思いを向けているからです。

 そしてユダは、自分が末の弟の身代わりになる、自分が奴隷になるとヨセフに申し出ています。自分の利益ではなくて、人のために自分を犠牲にする思いが、彼のことばに表れます。そのように見ると、ここでのユダはやがて人としておいでになる神の御子の生き方の「型」だと考えることもできます。


ただ一つの道を…

2023年05月15日 | 創世記

創世記 44章1−17節

 こちらに戻って三日目。何かに集中している時は大丈夫なのですが、一段落すると眠気が襲ってきます。

 ヨセフの兄弟たちに「災い」が続きます。この「災い」はヨセフが仕組んだものです。しかし、それは自分を奴隷として売った兄たちへの仕返し、復讐という類いのものではありません。ヨセフは兄たちを試みようとしているのです。

 かつてヨセフを奴隷として売った兄たちが、同じ母親から生まれた弟のベニヤミンに盗みの嫌疑がかかった時にどうするのかを、ヨセフは知りたいと思いました。それで、ベニヤミンの袋の中に自分の杯を入れさせました。

 兄弟たちがベニヤミンの袋の中にそれを見つけた時、彼らは逃げることをせずに、引き返して自分たちに起こったことをヨセフに話しました。ヨセフを奴隷として売り飛ばした頃なら、兄たちは別のことをしていたのかもしれません。しかし、ここで彼らは、ヨセフの前にひれ伏します。

 その中でユダは、何の言い訳もせず、ヨセフとの約束を受け入れて全員が奴隷になると申し出ました。このユダの姿勢は、以前の彼とは全く違うものでした。何かの間違いだ、こんなはずではなかった、などつべこべ言い訳せず、「私たちの咎を暴かれた」と言います。

「私たちの咎」を暴かれるのはいやなこと。人はそんなとき隠ぺいに走ります。しかし、聖書は隠すことなく言い表わすようにと迫ります。これが私たちがたどるべきただ一つの道。


私が責任を

2023年05月13日 | 創世記

創世記 43章1−15節

 14時間の長旅を終え、帰宅しました。一か月の間にずいぶんと日が長くなりました。これを書いているのは午後9時過ぎですが、まだ明るいです。

 ベニヤミンは決してエジプトに連れて行かせないと断ったヤコブでしたが、飢饉がそれを許しませんでした。それは、エジプトには食糧を提供するだけの蓄えがあったということであり、改めてヨセフの知恵と力が優れていると確認できます。

 ここは父ヤコブとユダとのやりとりが中心になっています。ユダはベニヤミンを連れて行くのなら食糧を買いに行くが、そうでなければ行かないと言います。そして、父ヤコブがあくまでもベニヤミンを伴うことに反対していると分かったユダは、自分がベニヤミンの保証人になり、責任を負うと言って、父親を説得しているのです。

 「責任を負います」ということばは、今でもいろいろな場面で用いられます。十分な力があって言える場合と、先がよく見えないけれどもとにかく物事を進める場合とがあります。ここでのユダの「私が責任を負います」は、後者でしょう。

 無鉄砲ではなりませんが、神に信頼する者は先がよく見えなくても、信じて一歩を踏み出すということをします。そして、そうしなければならないことも、少なくありません。


いったい何を……

2023年05月12日 | 創世記

創世記 42章18−38節

 今日ドイツに戻ります。日本時間深夜には働きの場に戻っていることでしょう。今回は多くの人々に再会することができました。

 ヨセフの兄たちは、自分たちに何が起こっているのかがわからずに困惑と恐れの中にいたに違いありません。父に言われて穀物を買い求めにエジプトに着いた彼らは、エジプトの総理大臣から「回し者」呼ばわりされて、投獄されます。三日目に総理大臣は彼らに、兄弟の一人を人質としてここに監禁したままにすること、末の兄弟を連れて来るようにと命じます。

 話が自分たちの思いとは全く違った方向に進んでいるのですから、兄弟たちが不安に駆られるのは当然です。しかしここで、彼らはかつて自分たちがヨセフをエジプトに売り飛ばしたことを思い出すのです。そして、「まったく、われわれは弟のことで罰を受けている」とまで互いに言っているのです。

 この時彼らは、エジプトの総理大臣がまさかヨセフだとは知りません。しかし、ヨセフには彼らのことばがよく分かります。意味不明の出来事を経験している兄たちが、かつて行った自分への悪事を思い出していることに、ヨセフは感極まるところがあったのです。

 兄たちの驚きや恐れはさらに続きます。彼らは自分たちの見に何が起こっているのか全くわかりません。混乱と不安の時です。

 しかし、起こってほしくないことが起こるということは、神の前に自分を省みるきっかけとにもなります。


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