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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

エジプトに戻った

2023年05月23日 | 創世記

創世記 50章1−14節

 月曜日、日本でいう車検を近くの修理工場でしてもらいました。その後、記念い洗車を。しばらく洗っていなかったのですが、さっぱりとしました。でも、軽い夕立が……。「洗車をすると雨」というジンクスは今回も有効でした。見上げると初めての夏雲が…。

 ここは、ヤコブの葬儀の記事です。ヤコブは子どもたちへの祝福のことばを告げてから息絶えました。3節にヤコブの死をエジプト中が悲しみ70日間喪に服したとあります。ファラオの死に際しての喪の期間が72日とのことですので、ヤコブのエジプトでの立場がどのようなものだったかが想像できます。それは、ファラオに次ぐ位にあったヨセフゆえにということではなく、神がヤコブをそのように置かれからです。

 37章2節に「これはヤコブの歴史である」と書かれています。ヨセフ物語の始まりにこのように書かれているのは不思議な感じがしますが、エジプトに来てからファラオを祝福し、ヨセフの二人の子どもたちを祝福し、さらに12人の子どもたちを祝福するヤコブのことを考えると、ヨセフが中心のようでありながら、なおヤコブの物語なのだということを、ヤコブの葬儀の記述は伝えています。

 ヨセフをはじめヤコブの子どもたちは、カナンの地に父の遺体を運び、盛大な葬儀を行ない、父ヤコブの遺言どおりにマクペラの畑地の洞穴に葬りました。

 目に留まるのは、ヤコブを葬ったヨセフたちはエジプトに戻ったという記述です。曽祖父アブラハムの、祖父イサクの、そして父ヤコブの墓があるのだから、私たちもここで暮らそうとはだれも言い出さなかったのです。創世記15章13節で「あなたは、このことをよく知っておきなさい。あなたの子孫は、自分たちのものでない地で寄留者となり、四百年の間、奴隷となって苦しめられる」と主がアブラムに語られました。

 事情が許すから、環境が整ったからといっても、時ではないこともあると、「エジプトに戻った」ということばは教えています。何に基づいて行動するのかを問われる一節です。


あなたの救いを待ち望む

2023年05月22日 | 創世記

創世記 49章

 外に出ると少しばかり熱気を感じたのは、今年初めて。春から夏への変化を感じさせます。

 本章は、ヤコブが12人の子どもたちを祝福することばが記されています。28節に「それぞれにふさわしい祝福を与えた」とあります。

 父ヤコブのこれらのことばは、父親として子どもたちをずっと見続けた結果としてのものではなくて、神がヤコブを通して彼らに与えられた祝福です。

 ある方は、ヤコブによる祝福には二つの山があり、前半の山はユダで後半はヨセフだと書いていました。ユダは上の三人が罪を犯したために、兄弟たちのリーダーになります。「王権はユダを離れず、王笏はその足の間を離れない」ということばが目に留まります。

 やがてイスラエルが王を持つようになった時、ダビデ以降はユダ部族から王が選ばれていきます。さらには、救い主としてこの世に来られた神の御子イエスは、ダビデの子孫の一人として生まれます。

 そしてヨセフ。ヨセフへの祝福のことばの特徴は豊かさ。収穫の豊かさ、自然の豊かさを子孫たちは享受するのです。

 目に留まるのは、18節のことば。ヤコブは子どもたちへの祝福のことばの合間に、突然祈りのことばを加えています。「主よ、私はあなたの救いを待ち望む。」これは子どもたちへの父親としての祈りか、あるいはすぐ前のダンへのことばで「かかと」を用いた時、かつての自分の罪を思い出したのかもしれません。「ヤコブ」の名前は「かかと」と関係があるからです。

 いずれにしても、「私はあなたの救いを待ち望む」はヤコブだけでなく、私たちになくてならない祈りのことばです。何かを進めている時に突然神の救いを求める、このようなことは私に必要なのだということに気づかせることばです。


祝福する人

2023年05月20日 | 創世記

創世記 47章

 当地のイースター休みに、私たちと同じように日本に一時帰国した方からのお土産をいただきました。「白い♡♡」というお菓子。隣で食べている方と顔を見合わせて「美味しい!」と思わず言い合いました。久しぶりの味でした。

 ここには、ヨセフの兄弟たちや父ヤコブがファラオと会ったことが記されています。この時ヤコブは130歳。これから17年間彼はエジプトにいることになります。

 目に留ったのは、ヤコブがファラオを祝福したという記事。富においても権威においても勝るファラオが、130歳のヤコブから祝福されるのです。この時ヤコブは何を持っていたのだろうかと、考えてみます。ファラオに与えるような物はこの時のヤコブにはなかったのです。しかし、彼はファラオを祝福します。

 ここでのヤコブの行動から、神を信じる者は神の祝福を分ける務めを持っていると考えます。そして、イエスの弟子ペテロたちのことばが心に湧いて来ました。「金銀は私にはない。しかし、私にあるものをあげよう。ナザレのイエス・キリストの名によって立ち上がり、歩きなさい。」使徒の働き3章6節

 ヤコブは自分の人生を振り返って、先祖たちの人生には及ばずわざわいがあったとファラオに言っています。それは権力者の前の謙遜ということでなくて、ヤコブの人生であり正直な思いでした。しかしヤコブは、ファラオを祝福します。

 もう一つ、ヤコブの祖父のアブラハムに神が言われたことばも浮かんできました。「地のすべての部族は、あなたによって祝福される。」創世記12章3節

 神を恐れ愛する者は、祝福の人、祝福を与える人なのだと……。


再会

2023年05月19日 | 創世記

創世記 46章28−34節

 キリスト昇天日の祝日は、さわやかな陽気の中川沿いを往復。たくさんの自転車が行き交い、ウォーキングのグループは歌いながら歩いていました。

 ここは、ヨセフと父ヤコブの再会の場面です。二人は実に22年ぶりの再会を果たしたのです。それまで父はヨセフが獣に襲われて死んだものと思っていました。ですから、感動の再会を果たしたヤコブは「もう今、私は死んでもよい」と言い切ることができたのです。

 ヤコブのこの経験は、ずっと後(のち)の老人の経験と重なります。シメオンです。幼子イエスを見たシメオンは、「主よ。今こそあなたは、おことばどおり、しもべを安らかにさらせてくださいます」と祈りました。ルカの福音書2章29節に置かれています。

 私たちは、嬉しいことや喜びを重ねたいとして、重ねながら日々と過ごします。いろいろな喜びが次の力へとなります。

 しかし、こんなに嬉しいことがあったのだからもう言い残すものはないというような経験もあります。罪人である私たちが救い主イエスに会うというのは、真にもう死んでもよいと言うことができる、人生で最も大切な、そして最も大きな喜びだということを、ヤコブのことばから思いました。


語りかける神

2023年05月18日 | 創世記

創世記 46章1−27節

 住まいの家主さんが個人から会社に代わりました。まず、不動産会社が部屋の写真を撮りに来ました。これからどんな変化があるのでしょうか。

 ここは、ヤコブと家族がヨセフの住むエジプトに向かおうとする箇所。大きな変化が年老いたヤコブを待ち構えています。そこで、最初にヤコブがしたのは、ベエル・シェバでの礼拝。ここは、祖父のアブラハム、父イサクにとっても神の恵みを経験した地です。彼はこれからの旅を神への礼拝によって始めたのです。

 ここで主は、「エジプトに下ることを恐れるな」とヤコブに語られました。「恐れるな」というのは、ヤコブに恐れがあったということです。何を恐れていたのでしょう。

 創世記のこれまでを読み進めてくれば、エジプトに下るのは大きなリスクを伴うことでした。祖父のアブラハムはエジプトに下って失敗し、父イサクはエジプトに下ることを主によって禁じられました。アブラハム、イサクにとってカナンが神の約束の地だったからです。

 神はヤコブたちへの約束の地を、カナンからエジプトに変えたのではありません。なぜなら、ヤコブに「このわたしが必ずあなたを再び連れ上る」と約束しておられるからです。しかし、彼は生きてこの地に戻ることはできません。「ヨセフが、その手であなたの目を閉じてくれる」というのは、ヤコブはエジプトでこの世の生を終えるということを意味しています。しかし、それでは行かないとは言いません。

 人にはそれぞれ自分のこだわりがあります。「これは譲れない!」というものです。もしかしたら、歳を重ねるとそのようなこだわりがより強くなるのかもしれません。それを乗り越えさせるのは、神のことば、神からの語りかけです。

 私たちが神のことばを聞き続けるのは、自分のこだわりよりも大切なものがあることに気づく必要があるからです。年老いても、この大切さは変わりません。


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