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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主よ わたしは愛します

2023年11月01日 | 創世記

詩篇 26篇

 

 きょうから11月。近くの街路樹は紅葉(黄葉)が見頃です。久しぶりの青空の下、公園を歩くことができて良い気分転換となりました。1月号「みことばの光」のデータを今日印刷会社に送ります。「滑り込みセーフ!」でした。

 「みことばの光」では、月の初めや終わり頃に詩篇を味わうことが多いのですが、今日は26篇を読みます。ダビデは初めに、「主よ 私を弁護してください」と祈ります。敵が彼を訴えているのです。何を訴えているのか、その後のことばから想像するとダビデはいわれのない罪をでっち上げられていたと考えることができます。

 ダビデは自分の誠実、主への信頼、潔白を訴えています。この詩篇には「歩む」ということばが繰り返されます。昨日私たちはヨハネの手紙第三を読み、そこでも「歩む」ということばに目を留めました。改めて、大切なのは私たちが誰の前を、どこを、どのように歩むかということだと気づかされます。

 ダビデが歩むのは「あなたの真理のうち」です。4−5節に出てくる「不真実な人々すなわち偽善者」「悪を行う者・悪しき者」たちは、ダビデを訴える人々なのかもしれません。ここには「みんながやっているから…」という行動の動機はありません。たとえ多くの人々が悪を行なうような場にいたとしても、神を恐れ愛する者は、神の恵み、真理のうちを歩むという決意を、ここから読み取ることができます。

 そしてダビデは、「主よ わたしは愛します」と告白します。神の愛に応える第一の姿勢がこれです。その思いと姿勢をきょうの歩みの中に示したい、と願う者です。


ヨシャファテの谷で

2023年09月29日 | 創世記

ヨエル書 3章

 水曜日は、サルディス、フィラデルフィア、そしてパムッカレを訪ねました。途中峠付近で地元の農家の夫妻が野菜や果物を直売している所で停車。大きなメロンを6人でいただきました。甘くて美味しいメロンでした。

 ここには「主の日」には、諸国の民がさばかれることが描かれます。それによって、神がすべての民の主であるということが明らかにされます。

 この時すべての国々が集められるのは、ヨシャファテの谷。これはキデロンの谷のことだと考えられています。ちなみに「ヨシャファテ」の意味は「主はさばかれる」。

 さばきの理由は、神ご自身の民であるイスラエルの民に何をしたかということ。2節に「彼らはわたしの民を国々の間に散らし、わたしの地を自分たちの間で分配したのだ」とあります。ここではツロ、シドン、ペリシテの名が挙がりますが、それはい擦れもイスラエル・ユダにとって隣国なのです。

 トルコ旅を続けていますと、時代の変遷とともに、大切なものとして建てられた物の材料が、やがて別の権力者が建てようとした建物の材料になったということを知ります。

 しかし歴史上の出来事も、実は神が彼らに知恵を与えて物事を動かしておられるだと信じること、神はご自分の民を徹底的に守っておられるのを知るのは大切なことだということに気づきたいものです。

*写真 「サルディス」


愛は人を育てる

2023年07月15日 | 創世記

コリント人への手紙第一 8章

 街歩きをして、お茶の時間にお店に入りました。みんなでケーキも注文することになり、いろいろなケーキを見ていると、日本語で話しかけられてビックリ! ここでお仕事をしているとのこと。美味しいチーズケーキをいただきました。

 パウロは、偶像に捧げた肉を食べることへと話を進めます。当時のコリントには、偶像に献げた肉が市場に出回っていて、そうでない肉を見つけるのがむずかしかったと想像する人もいるほどです。ユダヤ人は偶像に供えられた肉を食べれば汚れるとして決して食べませんでした。イエスをキリスト、メシアと信じてクリスチャンとなってからも、ユダヤ人のクリスチャンはそうしており、異邦人のクリスチャンとの間にこれを巡って論争があり、そのために教会はこのことを話し合うためにエルサレムで会議を持ったのです。使徒の働き15章にこの会議のことが記されています。

「知識は人を高ぶらせ、愛は人を育てます」というのが、この問題に光を当てるためのパウロの基本姿勢だと思いました。コリント教会の中には、元々偶像には力はないのだから、偶像に献げる肉を食べても汚れることはないという知識を掲げる人々がいました。パウロはそれを認めています。

 しかし、「すべての人にこの知識があるわけではない」とも言います。そのような知識をひけらかして偶像に献げた肉を食べることによって、信仰につまずく弱い人々がいるのだと、パウロは諭します。そして、パウロ自身は決して肉を食べないとこの章を締めくくります。

 愛とはどのようなことなのかと、挑戦されているようです。


神の神、主よ

2023年06月24日 | 創世記

ヨシュア記 22章21ー34節

 木曜日夜の暴風雨で、金曜日はさわやかな初夏の陽気に……。白アスパラガスのシーズンも終わりなので、最後の買い物をし、夕食に美味しくいただきました。

 ヨルダン川の東側の割り当て地に戻ろうとしたルベン、ガド、そしてマナセの半部族は、帰り道にヨルダン川の西岸に大祭壇を築きました。これが西側に割り当て地を得た人々に知られることになり、祭司の子ピネハスと西側の各部族一人ずつの10人が、神への反逆だと厳しく非難しました。

 ここには、非難に対する東側部族の弁明が記されています。22節の「神の神、主よ。神の神、主はご存じです」という彼らのことばに目が留まります。それは、西側の非難のような反逆では決してはないということを主張することばです。東側部族は、自分たちの動機を何としても西側部族に知ってもらい、理解してもらいたいと心から願ったのです。

 ここでは双方とも、互いの関係を切らないようにということではなく、それぞれが神との関係を保つことを最も大切なこととして主張しています。

 私たちにはそれぞれ、いろいろな人間関係があります。夫婦、親子、兄弟など家族としての関係、社会における関係、そしてキリスト者は教会での人間関係があります。自分は誰との関係の中にあるのかを、改めて考えてみるなら、たくさんの線が引かれることでしょう。その中には太い線があり、切れそうな線があり、あるいは絡み合った線もあります。

 神との結びつきを断たないことに思いを向けることは、人と人との関係が保たれる土台なのだということについて、思い巡らされる箇所でした。


良いことのための神の計らい

2023年05月24日 | 創世記

創世記 50章 15−26節

 この時期、当地は白いアスパラガスが旬。スーパーなどのほか、通りにスタンドが建ちます。白と緑のアスパラガスのほか、いっしょにいただく「それ用のじゃがいも」や白ワイン、ソースなども売られています。

 読み進めてきた創世記は、今日で最後の箇所。

 兄たちはヨセフの報復を恐れました。これまでは父がいたゆえに、ヨセフの報復が為されなかったと彼らは考えたのかもしれません。しかし、父亡き後、いよいよヨセフは自分たちに仕返しをするのではないかと考えたのです。

 17節は、兄たちがヨセフに言い送ったことばです。父ヤコブが実際にこのように言うようヨセフに託したのかどうかはわかりません。兄たちが父の名によってヨセフの仕返しを食い止めようとしたのかもしれません。

 さらに、18節では兄たちがヨセフの前にひれ伏して「私たちはあなたの奴隷です」とまで言います。それほどヨセフを恐れていたのでしょう。兄たちがヨセフを殺そうとし、奴隷として売り飛ばしてからずいぶん経つことですが、歳月が忘れさせるということではなかったようです。

 20節のヨセフのことばの中に、あらゆる課題への答えがあると思います。私たちは、何事かが起こると誰が悪い、誰ががんばったなどと考えます。時には喜び時には落ち込みます。そして落ち込んだりだれかを非難したりします。

 「神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」という視点です。どんな時にもこの視点を持ちたいと願いつつ、創世記を読み終えます。


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