goo blog サービス終了のお知らせ 

みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の御名によって歩む

2019年12月14日 | ミカ書

ミカ書 4章

 ついに重い腰を上げて、クリスマスカードを作り始めました。ところが、大きめのカードを入れる通常よりも大きいB6の封筒がなかなか見つかりません。3店目でようやく発見。でも、ほとんど売り切れ。グリーティング用の需要しかないようなのですが、他の方もきっと探しているのだろうな…と、空(から)の棚を見ながら想像しました。帰宅してネット通販を見ると…、あります。「初めからそうすれば良かったのに」との心の声も聞こえてきますが、お店で買うことをやめてはいけないという思いもあります。

 ご自分の民への厳しいさばきのメッセージが3章にわたって続いたあと、「その終りの日」ということばではじまる本章には、希望のメッセージが届けられます。3節の預言は、「主は国々の間をさばき、多くの民族に判決を下す。彼らはその剣を鋤に、その槍を鎌に打ち直す。国は国に向かって剣を上げず、もう戦うことを学ばない」というイザヤ書2章4節と響き合います。

 平和の到来です。その平和は2節に基づいたものです。みおしえ、主のことばが語られ、そのことばが示す道を人々が歩むことによって実現する平和です。政治的なリーダーたちは平和の実現のために労しながらも、世界には一瞬たりとも戦いのない時はないと言われています。この章に、鍵が埋められているように思います。

 4節の「まことに万軍の主の御口が告げる」ということばにも心が留まります。神は沈黙しておられるのではないのです。神は語っておられる、しかし、私たちの耳が塞がれている、いや、塞いでいるならば、神のことばは届きません。

 新しい年を前に、「みことばの光」を継続購読するかを確かめている教会の係の方もいるでしょうか。こつこつと毎日みことばを耳を傾ける民が、諸教会に増やされるように、世界に増やされるようにと、願っています。


主の霊によって

2019年12月13日 | ミカ書

ミカ書 3章

 郵便受けにクリスマスカードが入る頃となりました。クリスマスカードを準備しなければと思いつつ、言いつつ、まだ取りかかっていません。

 神は預言者ミカによって、イスラエルに厳しいさばきを告げられます。さばきの先は指導者たちと預言者たち。この章では、指導者たちへのさばき⇒預言者たちへのさばき⇒指導者たちへのさばきの順です。

 2−4節では、指導者たちへのさばきが宣告されます。特にここでは、貧しい者から絞り取る彼らの悪が暴かれます。5−8節では、非難の鉾先が預言者たちに向けられます。彼らは金のために語るというのです。そして、9−10節では再び指導者たちへのさばきの宣告です。

 11節には、神のさばきに会う者たちが金を目的として自分の立場を悪用していることと、神に激しく逆らいながら神を宛にしているという身勝手さが暴かれます。12節は、彼らへのさばきが実行されるとの預言です。

 これら厳しいことばを指導者や預言者たちに届けるミカの姿が、まるで闇の中に輝く光のように8節に記されています。周りが暗ければ暗いほど、光は力強く輝きます。ミカの力は「主の霊」によるもの。「御霊に満たされなさい」というパウロのことばが心に響きます。


「戯言を言うな」という戯言

2019年12月12日 | ミカ書

ミカ書 2章

 これを書いている今、外では雪が降っています。積もるでしょうか。子どもの時は雪が降ると大喜びでしたが、今はちょっと大変…という気分。子どもの気持ちを…と、ふと思いました。

 自分たちの罪ゆえに神からのわざわいが降りかかったとき、神の民は、自分たちは荒らされ、割り当ての地は損なわれてしまったと嘆きの声を挙げました。次に、さばきのことばを告げた預言者ミカに「戯言を言うな」とののしります。神に背いたにも関わらず、彼らは神は自分たちを守ってくれるから、ミカよ、おまえの言っていることは戯言なのだ、ということでしょう。

 神のことばは、人の自尊心をくすぐり、人を心地よい気分にさせるようなものではありません。むしろ逆ではないのかと考えます。高ぶる者に警告を与え、怪しい平安に揺さぶりをかけます。ですから、神のことばは人にいらだちを与えるようなことにもなります。そんなときに出ることばの一つが「戯言を言うな」なのでしょう。

 預言者ミカは、しょんぼりと引き下がるようなことはしません。「『戯言を言うな』と彼らは戯言を言う」と語ります。力でつぶしにかかってくる権力者たちにひるまずに、彼らのことばを戯言だとして退けます。神のことばを語る預言者ミカの真っ直ぐな姿を見つつ、さて、自分はどうなのだろうかと振り返ります。


御住まいを出る神

2019年12月11日 | ミカ書

ミカ書 1章

 ミカ書というと、5章2節の「ベツレヘム・エフラテよ…」ということばに始まる救い主誕生の場所についての預言を思います。「みことばの光」の「ミカ書を読む前に」が書くように、ミカが預言者として活動していたのは、預言者イザヤの時代と重なります。北王国イスラエルがアッシリアによって滅ぼされ、南王国ユダも都エルサレムがアッシリアの大軍によって包囲されるという大きな危機を経験していた頃です。

 1章には、北王国のサマリアが瓦礫の山とされ、敵の脅威が南王国ユダにまで及び、エルサレムも危機に瀕すると預言されます。この二つの国は分裂はしましたが神が選ばれた民であり、神との契約を保ち、神の栄光を世界に輝かせるという役目をいただいていました。しかし、実際にはこの章に記されているとおりの有り様。神に背を向け神ならぬものに心を寄せていたのです。

 3節の「見よ。主は御住まいを出、降りて来て、地の高い所を踏まれる」ということばが心に留まります。北王国の王も南王国の王も、アッシリアが力をもって攻め込んでくるのだから、それに対抗するためにはエジプトと同盟を結ぼうとか、互いに軍事同盟を結ぼうと策を講じるのです。けれども彼らには、この国家的な危機のほんとうの理由がわからないのです。ほんとうの理由とは、神のさばきによる、ということです。いわゆる「霊的な鈍さ」のようなものを覚えます。

 人にはいろいろな能力があります。政治的な才能を持つ人、事業を展開し軌道に乗せることに長けた人、知恵を用いて新しい医薬品や治療法を見つけ出す人など…。そんなに大それたことではなくても、どんな人にでも「これならば…」というものがあると思うのです。さて、神の心を知り、自分の身の回りに起こる出来事に、神の御手を覚えることについてはどうなのだろうかと、ここを読んで考えます。何事かが起こったとき、あれをしてこれをしてとあたふたする前に、天を見上げる信仰を…と。

*写真はラキシュの遺丘


嘆き、確信、そして祈り

2014年12月18日 | ミカ書

ミカ書 7章

 大雪の北海道や日本海側に住む人たちには申し訳ないぐらい、当地は晴れ渡っています。

 一年で最も日の短い冬至が近づき朝歩きも暗い中でのスタートとなりますが、次第に明るくなる東の空を見ながらの時間は、神の芸術作品を見るかのようです。15分程度の軽いランニングも含めていますので、体がほかほかするという「良い気分」も味わえます。

 ミカ書7章は、節を追って嘆きと確信、そして祈りというように展開していくように思えます。

 預言者は嘆きます。

  実りがない…と。

  敬虔な者はいない…と。

  だまし、傷つける者が闊歩している…と。

  友だちも信用できない…と。

  そして、親子も心が通い合わない…と。

 しかし、彼は嘆きの中でも希望を抱いています。「私の神は私の願いを聞いてくださる」との確信であり、「主が私の光であるから」という確信です。

 心に留めたきょうのみことばは、「やみの中にすわっていても、主が私の光であるからだ」との一言。真っ暗闇のような所に投げ込まれていても、私には光がある。だから希望がある、祈りがあると続くのです。

 「すべての人を照らすそのまことの光が世に来ようとしていた。」(ヨハネの福音書1章9節)

 


2011-2024 © Hiroshi Yabuki