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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

へりくだって、あなたの神とともに

2014年12月17日 | ミカ書

ミカ書 6章

 多くの地方で大雪や暴風の警報が出されているのに、関東平野は晴れ渡っています。

 気象情報は数時間後、何日か先までの天気を予報してくれるのですが、気象衛星やコンピュータによる解析などで、かなりピンポイントでの予報をするのだそうです。まだ起こっていないことについて、こんなようになるかもしれませんと知らせるのが予報ですが、聖書にもまだ起こっていないことについての預言のことばが多くあります。

 預言者は、その預言者が生きていた人々に語るのですが、ずっと先にある景色も見せてくれます。橋の上からすぐ目の前に山を見ることができれば、何十キロ、いや何百キロ先の山も見えます。「近景はこれ、遠景はこれ」という具合にです。

 ベツレヘムにメシヤが生まれるという遠景を見せてくれた預言者は、再び時代の人々に語ります。この章では、富む者が貧しい者から掠め取っていよいよゆたかになるというゆがんだ繁栄に酔う人々に、神が討論を挑まれます。

 心に留めたのは「へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか」との8節のことば。

 それほどまでに力のある者富む者たちは高ぶっていたのだということに気づかされるとともに、この世界をお造りになった神は「へりくだって、ご自分の民とともに歩んで」くださったのだということを覚えました。

 


最も小さいものだが

2014年12月16日 | ミカ書

ミカ書 5章

 どんよりと曇り、寒い朝です。先週金曜日におじゃましたある特別養護老人ホームの壁面に貼られていたもの。どなたが作られたのでしょうか。すてきですね。

 きょうの箇所には、よく知られたクリスマスについての預言の一つがあります。

 ミカの時代からおよそ700年後、ユダヤ人の王の誕生を恐れたヘロデ王は、側近の者に王がどこで産まれたのかを調べさせました。学者たちはミカ書5章2節をひも解いて、キリストはベツレヘムで生まれたと王に告げるというのが、クリスマスのストーリーの一つとしてあります。詳しくはマタイの福音書2章1−12節をお読みください。

 心に留めたのは、2節のベツレヘムについての預言の中にある「最も小さなものだが」ということば。

 キリストがおいでになることのために、神はどれだけの人々を、時を、場所を用いられたのかと考えるのです。そこには、力のある人もない人もいました。有力な氏族も最も小さな氏族もありました。

 世界で初めて救い主誕生の知らせを告げてもらったのは羊飼いたちでしたし、ユダヤ人の王が産まれたことを知らされて拝みに来たのは、異邦人の賢者たちでした。主流にいる人たちばかりでなく、小さな者や弱い者たちが神のお役に立つことを、「最も小さなものだが」ということばから思い巡らすのです。希望が湧いてきます。

 

 


しかし、私たちは

2014年12月15日 | ミカ書

ミカ書 4章

 土曜日、愛車キューブがついに走行距離15万キロ達成。よく走ってくれました。そんな話をある方にしたら、同じ車を30万キロ乗った人がいると…。上には上があるものです。

 ミカ書4章1−5節は、一部を除くとイザヤ書2章2−5節と同じことばです。ミカとイザヤとは同じ時代に働いた預言者ですが、さて、どちらが先なのだろうかとの見解が分かれているようです。伝統的なのは、イザヤがミカの預言を用いたという観方だそうです。別の人はミカがイザヤを、さらに別の人は別のことばをイザヤもミカも用いたと考えます。

 4章前半に描かれているのは終わりの日のシオンの高揚。シオンが高くそびえ立ち、国々が上って来て、主がここで語られることばによって歩むという景色です。主が王として国々を正しくさばくので、人々はもう殺戮のための武具を用いないで、農具として耕作の道具へと変えられていくというのです。

 心にとどめたのは、5節の「しかし、私たちは、世々限りなく、私たちの神、主の御名によって歩もう」とのことばです。飲み込まれることなく、引きずられることなく、神から出ることばに教えられて歩むことの大事さを、このことばは伝えています。覚えたいみことばの一つです。

 


たわごと

2014年12月13日 | ミカ書

ミカ書 2章

 

 起きがけのラジオが「この冬一番の冷え込み」と報じていましたので、それなら! と朝歩きに出発しました。すると、すてきな冬の朝の景色が待ちかまえていました。

 富と力とに任せて貧しい人々の畑や家々を次々に取り上げて自分たちのものにする支配階級の人々の罪が、2章でも指摘されています。

 さらに彼らは、神のことばをもっていさめる預言者に「たわごとを言うな」と圧力をかけるのです。「私のことばは、正しく歩む者に益とならないのだろうか」とのことばが預言者ミカによるものだとしたら、神のことばを伝えても「たわごと」として跳ね返され、非難される者のむなしさのようなものが伝わってきます。

 おそらく、この時代にミカのような預言者ではない、不正を行なう支配者たちを喜ばせ支えるようなことばのみを届けるいつわりものが闊歩(かっぽ)していたのでしょう。

 けれども、どちらがたわごとを言っているのかがやがて明らかになる日が来るのだということを、この章の後半によって知ることができます。神が正しくおさばきになるのです。

 選挙運動もきょうが最終日。大音量での連呼が一日中どこかで響くことでしょうが、音の大きさやことばの甘さに引きずられることなく判断したいと、迷っています。

 良い週末をお迎えください。

 


はだしで、裸で歩く神

2014年12月12日 | ミカ書

ミカ書 1章

 「みことばの光」12月号3番目に読むのは「ミカ書」です。

 ミカ書といいますと、5章2節にある「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になるものが出る」との預言で知られます。後に、救い主がユダヤのベツレヘムで生まれるとして、引用されました(マタイの福音書2章6節)。しかし、それ以外「ミカ書」はどのようなものなのかについては意外とわからないのかもしれません。

 預言者ミカが活動していたのは、イザヤと重なります。迫り来るアッシリヤの脅威に際し、ユダの王ヒゼキヤはイザヤやミカの預言によって、踏みとどまることができたとも考えられます。

 きょうの箇所で心に留めたのは8節。

 「このために、わたしは嘆き、泣きわめき、はだしで、裸で歩こう」とのことばです。ご自分の民の罪と咎のためにさばきを下される神は、大いなる嘆きを持っておられる様子が伝わってきます。人の罪をわが事のように嘆く神のご愛を覚える一言です。

 だから、誰が悪い、回りが悪いと自分を正当化することではなくて、どんなに小さなものであったとしても、神の前に罪を悔い改めることが大切だとおしえられます。


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