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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

語る動機

2016年01月30日 | テサロニケ第一

テサロニケ人への手紙第一 2章1−12節

 1月がようやく終わろうとしています。年の初めの月はずいぶんとゆっくり過ぎるように思うのですが、今年は特にそう感じました。太陽が顔を出し、草花が芽を出し花を咲かせる春を待ち望む思いが強いからなのでしょうか。いかがですか。

 きょうの箇所でパウロは、テサロニケの人々にどのような動機で福音を伝えたか、どのように生活したかを書いています。動機も生活も、きょうの「みことばの光」タイトルにあるように、「神の神による神のための」でした。背景には、パウロの宣教に疑いを抱く人々がいたということが考えられます。それにしても、自分の働きや生活について後ろ指を指されることは何一つないと言い切るとは驚きです。それは、真に神を思うからこそ、キリストの福音だけが人を救いことができると信じているからこそ、テサロニケの人々を愛しているからこそ、できることだと思います。

 「みことばの光」には、「権威的ではなく幼子のように」という二番目の見出しがあります。これは、7節にある「優しくふるまいました」と訳されることばが、新約聖書の多くの写本で「幼子」ということばを用いていることによるものです。それで、「……幼子のような心で語った」と書いているのです。

 「幼子のような心で語る」とは、どのようなことかを考えてみました。ある注解者は「宣教者が聴衆に自分を合わせる、思いやりのある振る舞いを示すもの」と書いています。パウロはテサロニケの人々に合わせて、彼らがわかるように福音を伝えたということなのでしょう。

 ここに、福音を届ける者が持つべき大切な姿勢が記されています。


多くの苦難の中で

2016年01月29日 | テサロニケ第一

テサロニケ人への手紙第一 1章

 「みことばの光」では、きょうからテサロニケ人への手紙第一を読みます。使徒パウロが書いた教会宛の手紙は、新約聖書ローマ、コリント(1、2)、ガラテヤ、エペソ、ピリピ、コロサイ、テサロニケ(1、2)の9つです。

 テサロニケに教会が生まれた経緯が記されている使徒の働き17章1-15節を読むと、きょうの箇所の背景がわかりやすくなります。それによると、パウロはユダヤ人の会堂で三つの安息日にわたり聖書に基づいてユダヤ人と論じ、イエスこそキリストだと語りました。信仰を持つ人々もいたのですが、ユダヤ人はパウロの話に憤り、ならず者を巻き込んで暴動を起こして、パウロとシラスを捕まえようとしていました。そこでパウロとシラスは、夜陰に紛れてテサロニケからベレヤへと向かって行ったのです。

 テサロニケの教会は、このようにして生まれました。福音を伝えたパウロたちがここで苦難に遭っただけでなくて、福音を信じた人々はそのはじめから「多くの苦難の中」に投げ込まれたのです。イエスをキリストだと信じるならばこんなにも苦しめられるのかということを、信仰の幼子たちは、しっかりと目に焼き付けたのです。しかし、それでも彼らは信仰を持ち、保ち、やがてこの地方だけでなくて、あらゆる所に響き渡る信仰の群れとして知られるに至るのです。

 苦難が信仰へのきっかけになるという話をよく聞きます。それとともに、信仰が苦難のきっかけになるというのは驚くことではありません。「聖霊による喜びをもってみことばを受け入れ」るのが苦難の中での信仰者の姿なのだと知ります。

*散歩の途中で(春はそこまで?)


喜び、祈り、感謝

2011年02月07日 | テサロニケ第一
1テサロニケ5章12-28節

 「みことばの光」を用いて聖書通読をやるぞ! という方から、毎日のように「一言メッセージ」が届きます。きょうはこんな内容。
 「ついに登場! 『いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。』その通りです。」
 「みことばの光」では5年間で旧新約聖書全巻を読む計画になっていますが、多くの人に覚えられ、親しまれている聖書を読むときは、「ついに登場!」「やっと来たよ。ここにあったね、ホッ」という気分。だから、「メール氏」のお気持ち、よーくわかります。
 以前、幼稚園で子どもたちといっしょに、たくさんの聖書のことばを暗唱していました。その初めが「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。」 毎日暗唱していました。
 教会に対する神の御心がこの3つのことばで表現されている、という文章を読んだことがあります。
 「フーッ」とため息が出るようなときに、思い出して口ずさみたい聖書のことばです。


慎み深く

2011年02月06日 | テサロニケ第一
1テサロニケ5章1-11節

 じつは鉄道が好きでして、気が向くと「東京近郊区間一筆書き」をやってみたり、旅先では2本の鉄の道の上を走るものに乗ったりしています。たまに行く海外でもこれは欠かせません。
そして夢見ているのはイスタンブールからアテネまでの列車の旅。途中テッサロニキ(テサロニケ)に寄るのも楽しみです。でも、いつ実現しますことやら…
 テサロニケ人への手紙も残りあとわずか。新約聖書の書簡を読むのは、長い旧約聖書の旅に比べたら、あっという間ですね。でも、長い長い旧約の旅を忍耐して読み続けるので、新約聖書がわかる! こんなことを、いつも思っています。
 「みことばの光」に、「『慎み深くしている』ようにと、繰り返し記しているのも、考えさせられる点である」とあります。「慎み深く」というと、控えめであまり目立たないなどという印象を持ってしまうのですが、ここではむしろ、「わきまえをもって」「分別をもって」「度をすごさずに」、という意味で使われているようです。
 キリストの再臨を待つ教会が、この世にどっぷり浸り切って度をすごすことがないように、酔っぱらって眠りこけてしまわないようにと、いうことなのでしょう。


どのように歩んで

2011年02月05日 | テサロニケ第一
1テサロニケ4章

 朝刊土曜版に「ダイアログ・イン・ザ・ダーク・ジャパン」(DID)というエンターテインメントの紹介記事がありました。「暗闇の中での対話」と訳すのでしょうか。
 参加者が何人かに分かれ、案内役の視覚障がい者に導かれて、光が遮断された真っ暗な施設内を歩きます(視覚障がいのある人々の雇用になるということにも興味があります)。白杖で足場を確かめて、手探り状態で進むと、やがて聴覚や嗅覚が起動し始めるのだそうです。そして、見知らぬ人同士のダイアログ(対話)が弾むようになると言うのです。
 闇の中で見えない者同士が親しくなるとはおもしろい! 見えないからいない、見えないからわからないとよく言われるけど、見えないからこそ、ゆたかな対話が生まれる…、そう思った時に、神様との対話にも通じるなぁ、ということに気づきました。
 さて、本日の「みことばの光」のタイトルは「神に喜ばれる生活の勧め」です。「あなたがたはどのように歩んで神を喜ばすべきか」(1節)ということばに注目。だれに喜んでもらおうと生きているのか、立ち止まって考えるきっかけになることばですね。
 昨日「みことばの光」5月号の編集を終えました。「使徒の働き」そして「1歴代誌」です。お楽しみに。
 
 


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