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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神のことばが響き渡る

2021年01月29日 | テサロニケ第一

テサロニケ人への手紙第一 1章

 集うことが難しい中(今は訪問は一人だけという制限下にあります)で、昨日はいっしょに礼拝をしている方と久しぶりに電話で話をしました。お二方ともお元気そうで何よりでした。「ちょっとお茶でも…」ということもできないので、これは大事な時ですね。今はネット環境がある場所なら、世界中どこへでもビデオ通話ができるのですが、顔を見ないで話すとかえって相手の方のことをいろいろと想像できて、良いのかもしれません。

 今は用件があったら、電話、いや、SNSで即座に…という時代ですので、何かの用事があって郵便物が届くというのは請求書か役所からの手紙、ダイレクトメールがほとんどかもしれません。しかし少し前までは互いの消息の確認を手紙や葉書でしていました。新約聖書が描く時代の通信手段といえば手紙でしょうか。しかも、手紙は親しい人などによって運ばれ手渡しされていました。手紙を書き、それが届き、そして返事が返って来るまで、いったいどれくらいの時間がかかったのだろうかと想像してしまいます。

 テサロニケ人への手紙は、書き出しにあるように使徒パウロが今のギリシアにあるテサロニケの教会に送った手紙です。この地に教会ができたのは、パウロたちによるいわゆる第二次伝道旅行によってです。これについては「みことばの光」1月号の「テサロニケ人への手紙第一を読む前に」に詳述されていますので、お読みください。

 生まれたばかりのテサロニケ教会のことが心に掛かっていたパウロは手紙を送ります。その初めの章でパウロは、この教会の素晴らしい信仰を喜び神に感謝しています。その中に、「主のことばがあなたがたのところから出て、…響き渡った、…あなたがたの信仰が、あらゆる場所に伝わっている」とのパウロのことばがあります。パウロは何も言う必要はないとまでいうのです。それは、大声で神のことばを伝えたということによるのでなく、彼らの生き方、歩みがそうさせたのではないかと、考えます。


仕上げは

2016年02月04日 | テサロニケ第一

テサロニケ人への手紙第一 5章12−28節

 スーパーの店先には水仙の花が並びます。クロッカスも…。日本の暦ではきょうが立春ですね。お住まいの近くには春の訪れを感じさせるものがあるでしょうか。

 テサロニケ人への手紙第一の終わりにあたる部分には、「主がおいでになるのを待ち望む生活」という見出しをつけることができるかもしれません。テサロニケ教会は、厳しい迫害などの苦しみの中でも教会のあり方を崩すどころか、周囲の模範となっていました。正しい教えを守ることにおいても(5章1節)、実際の生活においても(11)…。

 きょうの箇所について、「みことばの光」は、「私たちの営みはどこまで行っても不完全なものである。しかし仕上げは全能者の御手のうちにある」と書いています。地上にある教会に完成はないのです。どこまで行っても不充分さがつきまといます。むしろ、「もうだいじょうぶ」とか「これでいい」などと慢心することのほうが危ないのだと思います。

「仕上げは…」ということばから、小さな子どもが歯磨きをして一通り終わると、「おかあさん!」と呼ぶ、子ども向けテレビ番組のコーナーがあったっけ、などと思い出しました。「仕上げは神の御手の内にある」とは、神さまがやがて不充分、不完全な教会を仕上げてくださるということ。23節のことばに信仰者の希望があることをおぼえました。


目を覚まし、慎み深く

2016年02月03日 | テサロニケ第一

テサロニケ人への手紙第一 5章1−11節

 きのうの午前はドイツ語のレッスン。教えるのが上手な、というよりもほめるのが上手な先生に励まされて、楽しいあっという間の90分でした。帰宅するとすぐに、「ドイツ語で聖書を読む会」。午前のレッスンの効果か、これまでよりもわかります。でも、先はまだまだ…という感じです。次回は金曜日。

 主イエスが再びおいでになるのを熱心に待っていたテサロニケ教会に、パウロははどのようにして待つのかを書いています。それは「みことばの光」がまとめているように「恐れるな」「恐れよ」ということです。

 中には、主イエスがいつおいでになるのだろうと、あれこれ詮索する者もいました。この人々にパウロは、主がいつおいでになるのかはだれにもわからないのだから、主に信頼する者は恐れることはないというのです。そして、いつおいでになってもよいように、主を恐れる生活をして待とうではないかと呼びかけているのです。

 心に留めたのは、6節の「目を覚まして、慎み深くしていましょう」ということばです。

 「目を覚まして」というのは、いつおいでになってもよいように、主に信頼して日々を歩むようにという意味です。「慎む深くして」というのは、主がおいでになることに過敏になることなくて、落ち着いた生活をするようにという意味です。信仰の歩みには、主がいつおいでになってもよい…という覚醒した心と、いつおいでになるかということにあたふたしないで落ち着いた生活をするという慎み深さの、両方が必要なのだと教えられます。


ますます……

2016年02月02日 | テサロニケ第一

テサロニケ人への手紙第一 4章

 二三輪だったのが、数日のうちに絨毯のように! 風は強いですが暖かな一日でした。

 4章ではこの手紙の終わりにあたり、パウロがテサロニケ教会に与えたいくつかの勧めが書いてあります。「みことばの光」がまとめているように、パウロはここで、自分のからだを聖く保つこと、兄弟愛をますます実践すること、そして眠った人のことで悲しみに沈むことなく再臨を待つようにと勧めています。特に、苦難の中に誕生し、成長したテサロニケの教会は、主イエスが再びおいでになる(再臨)のを熱心に待っていたということでも知られています。

 主がまもなくおいでになるという約束は、どれほどこの教会を慰め力づけたことでしょう。けれども、熱心に主の再臨を待つあまり、中には、キリストがおいでになる前に死んだ人たちはどうなるのだろうかとの疑問を持つ人々もありました。パウロは悲しみに沈む人たちに、主イエスの再臨の際に何が起こるのかを詳しく書いています。

 きょうの「考えよう」は「信仰生活における現状維持の危険性に気づいているだろうか」というものでした。きょうの箇所にも「ますます…」ということばが二度用いられています。「完全になったのでこれでよい」ということはないのです。日々聖書を読み続けるということ自体が、現状維持の危険性から自分を守ることなのだと言えます。そのような意味で教会が成長することを、楽しみにしつつ祈ります。


離れていても…

2016年02月01日 | テサロニケ第一

テサロニケ人への手紙第一 3章

 きょうから2月。「2月は逃げる」などと言われるのですが、今年は四年に一度の2月29日のある、閏(うるう)年なのですね。「みことばの光」は今が5月号の編集をしています。編集の際には、何度も聖書と原稿をつきあわせるのですが、日々「みことばの光」で聖書を読むのは編集時とは違います。自分への神の語りかけとして読むからなのでしょうか。

 パウロは生まれたばかりのテサロニケ教会を、置き去りにするかのように旅立ってしまいました。回りの厳しい状況の中で、教会はだいじょうぶなのだろうかという気持ちがあったのです。自分自身も、「一度ならず二度までも」テサロニケに行こうと試みるのですが、サタンの妨げによって実現できません。そこでパウロは、信仰によるわが子と呼ぶテモテをテサロニケに遣わします。

 そして、テサロニケ教会の信仰と愛についてのよい知らせをテモテから聞いて、慰めを受けたのです。そしてテサロニケ教会をおぼえて昼も夜も祈っていると、パウロは書いています。

 11-13節では、何を祈っているかを書いています。まず、自分をテサロニケに行かしてくださるように。次に、テサロニケ教会の愛が増し加わるように、そして、主イエスが来られるとき、父なる神の前で彼らが聖く責められるところのない者としてくださるよう、祈るのです。

 日本からはるか離れて生活をしていると、時折、すぐそばにいられないもどかしさのようなものを感じます。けれども、私たちには家族や友のために神に祈ることができる、どんなに離れていても…。ありがたいことです。

*日曜日の日の出前。でも、夕方には雨が降ってきました。


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