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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

イエスの名があがめられるために

2021年08月04日 | 使徒の働き

使徒の働き 19章11−22節

 酷暑の日本でオリンピックをするのは、コロナ禍以前から反対の立場。ましてやこの時期に…との思いを強く持ち続けています。一方でアスリートたちの活躍を見ると、スポーツの持つ力のようなものをおぼえます。「金メダルを取ったボクシング選手が、引退してカエル関係の仕事に就きたいと言った」などというニュースに接すると、すがすがしさを感じてしまうのです。

 パウロのエペソでの宣教の様子が続きます。11節の「神はパウロの手によって、驚くべき力あるわざを行われた」と言うことばに目が留まります。ここに描かれているのは、まさに驚くべきこと。パウロが身につけていた手拭いや前掛けを病人に当てたら、病気が治り、悪霊が出て行ったなどという出来事を目の当たりにしたら、パウロがどんなに素晴らしいかと焦点は人に向きやすいのですが、そのようなとき私たちは「神は…」という主語を忘れてはならないのだと思います。

 霊をもてあそぼうとした祈祷師たちが悪霊に打ち負かされたのも、エペソだからこそ神が起こされたことでした。この出来事は、そこに住むユダヤ人とギリシア人のすべてに知れ渡り、…主イエスの名をあがめるようになることにつながります。注目すべきは、神への恐れが自分たちの行動を改める動機となったということ。これまで人々が大切にしていたもの、頼っていたものを焼き捨てたということは、彼らのイエスへの信仰が本気だということを知らせています。

 今捨て去るべきものは何だろうか…。


補う人

2021年08月03日 | 使徒の働き

使徒の働き 19章1−10節

 月曜日の最高気温は22度。これから先の10日間も、最高気温が25度程度と予報されています。まだ8月が始まったばかりですが、この夏はこんな陽気で終わるのだろうか、それはそれで寂しいことだと贅沢を言っています。

 パウロの三度目の伝道旅行は、アジア州の州都エペソが焦点の一つ。二度目の伝道旅行の帰路立ち寄った時、もっと長くとどまってほしいとのエペソの人々の頼みを聞き入れず、「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます」と言って、パウロはエペソをあとにしました。ですから、三度目の旅行でエペソに向かったのは、パウロが神のみこころであると確信したからというのは明らかです。

 アポロも、エペソの12人の弟子たちも神への熱心な信仰を持っていたのですが、肝心なことが足りなかったということが分かります。ヨハネのバプテスマしか知らなかった、ヨハネのバプテスマを受けたという共通点が双方にあります。

 アポロの不足をプリスキラとアクラ夫妻が福音を正確に語ることで補い、ここでは弟子たちの不足をパウロが主イエスの名によるバプテスマを受けることで補いました。その結果、彼らは目覚ましい働きをすることになります。両者に共通するのは、聖霊に満たされて語ったということです。

 ここから、教える人の必要、補う役目を担う人の必要をおぼえました。その人は、自分ではなく主イエスを指し示す働きをするのです。自分ではなく…。


神のみこころなら

2021年08月02日 | 使徒の働き

使徒の働き 18章18―28節

 四日間の集まりも無事に終了。昨日から会場のある国に対して、私たちが住んでいる国の感染症の規制が厳しくなり、そのために私たちは土曜日に抗原検査を受け、陰性の証明を携えて国境を越えましたが、国境管理の人もおらずに何事もなく帰宅しました。このようなことがなければ、国境を意識するのはEU旗の看板ぐらいなのですが…。

 ここには、パウロによる二度目の伝道旅行が終わり、三度目の伝道旅行が始まったこと、アポロのことが書いてあります。二度目の伝道旅行の帰路、パウロはエペソに立ち寄ります。彼がエペソを訪ねるのはこれが初めて。やがてエペソにはイエスを信じる群れが形成されて行くのです。

 エペソでパウロは、人々からもって長くとどまるように頼まれるのですが、聞き入れませんでした。その時のパウロのことばが心に留まります。「神のみこころなら、またあなたがたのところに戻って来ます。」エペソの人々の願いは、自分を必要としているということの現れでしたので、ありがたいことでした。けれどもパウロは断り、先を急ぐのです。なぜ彼はそのようにしたのでしょう。

 「神のみこころ」ということばは、もしかしたら、日本人特有のやんわりと相手を傷つけないように断る際に使うことはないだろうかとも思います。もちろんパウロは、そのような意味で語っているのではありません。

 パウロは各地を移動して福音を伝えました。しかし、それは彼が行きたいので次々に移動したのではありません。19章21節に「…パウロは御霊に示され、マケドニアとアカイアを通ってエルサレムに行くことにした」とあり、20章22節ではパウロ自らが「私は今、御霊に縛られてエルサレムに行きます」と言っています。「神のみこころは何か」と求め続ける人が、「神のみこころなら…」と言いうるのです。


いずれまた…

2021年07月31日 | 使徒の働き

使徒の働き 17章16−34節

 

 感染者が出ないようにとの主催者側の周到な準備と対応のなかで、集まりは二日目を終わろうとしています。驚いたのは食事の美味しさ。ドイツ国境の町なのでどこか似たような料理なのですが、やはり一味違います。おしゃれな感じがするのは、思い込みでしょうか。

 ここには、アテネでの宣教の様子が記されています。16節の「パウロはアテネで二人を待っていたが」の二人とは、ベレヤに残ったシラスとテモテのこと。18章5節を読むと、この二人はパウロがアテネにいる時には追いつくことなく、コリントで再び合流することになります。

 アテネでパウロはこれまでとは違う宣教をしています。神々の地で、議論好きな人々の間で、彼はイエスがメシアであることをではなく、天地をお造りになった神がいることを宣教の要点としています。これは八百万の神々の国と言われる日本での宣教とも関わりがあります。

 そしてここでも、パウロの宣教が信仰を持つ人とそうでない人に分けました。「そのことについては、もう一度聞くことにしよう」ということばに目が留まります。「あとで…」「いずれまた…」というのは、勧誘された時の断りのことばとして私たちも用います。このように言われてパウロは、どのような思いで人々の中から出て行ったのだろうかと、想像します。

 ある人は、パウロのアテネ宣教はうまくいかなかったと評します。しかしそうなのでしょうか。そこでの宣教の働きによって一人でも、二人でも信仰に入る人がいるならばその働きが失敗だったとは言えません。何が成功で何が失敗なのでしょう。


押し出されるように

2021年07月30日 | 使徒の働き

使徒の働き 17章1−15節

 ライン川を越えてフランスに入ると、道路標識も少し違いますし建物の雰囲気も変わります。わずか数キロのことなのにこんなにも違うのかと、改めて思いました。ということで、今はフランス北東部のストラスブールという町にいます。

 パウロたちは、ピリピを出てテサロニケへと向かいました。この町にはユダヤ人がピリピよりも多かったので、ユダヤ人の会堂がありました。パウロたちによる伝道の旅のかたちは、新しい町を訪れたらまずは会堂に行くことでした。まずはユダヤ人に、そしてユダヤ教への改宗者にイエスがメシアだということを伝えたのです。

 水曜日に、福音は人を分けると書きましたが、それはテサロニケでも同じでした。福音は、イエスを信じる人と受け入れない人とに分けました。受け入れないならば、そっとしておけば良いのでは…と思うのですが、相手はユダヤ人。ナザレ人イエスをメシアだなどと触れ回っているパウロたちを黙っているわけにはいかないのです。

 反対者たちは巧妙です。事がユダヤ人の宗教についてのいざこざであれば、この町の役人たちが取り上げることはないと知っていた彼らは、パウロたちがローマ皇帝の詔勅に背く行いをしていると訴えるのです。

 結局パウロたちは、テサロニケを追われるようにしてベレヤに向かいます。ベレヤの人々の姿勢については、改めて書くまでもなくいつの時代でも、聖書を読む者のあるべき態度。しかし、だからといってパウロがそこに留まり続けることはできませんでした。パウロはべれやでイエスをメシアと信じた人々のためにシラスとテモテを残して、一人でアテネへと向かいます。まるで、力強い手が彼を前に前にと押し出しているかのようです。

 出来事の背後に、見えないお方の力強い御手の働きを覚えることがありませんか。


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