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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

彼をそれにかけよ

2017年05月20日 | エステル記

エステル記 7章

 あるお宅を訪ねようと車を走らせていました。次の四つ角を右に曲がると2分ほどで着けるのですが、なんとそこは工事で右折禁止。やむなく直進してUターン。結局遠回りをしてしまいました。その日はいつも通り慣れている道も思わぬ渋滞。「なんてこった!」という気分でした。結局約束の時刻を過ぎての訪問となりました。

 民族絶滅という危機がどんでん返しの結末になるために、エステルが、モルデカイが、王が…用いられたのはいうまでもありません。しかし、それらの人々を選び、ふさわしい時、あるべき場所に置いたのは、この出来事の真の主役である神です。

 エステルが招待した一度目の宴会の時のハマンは、天にも上るような気分だったことでしょう。けれども、それからの彼は、坂道を転がるように気持ちが落ち込み、いや、「なんてこった!」と落ち込むばかりか、いのちまで取られてしまうのです。

 「彼をそれにかけよ」という王のことばが心に留まります。ハマンはモルデカイをかけようとして作らせた、20メートルもの高い柱の上に自分がかけられいのちを落とすとは、夢にも思わなかったことでしょう。人の企ての頼りなさ、薄っぺらさのようなものを思わせることばに響きます。

 それとともに、飛躍があるかもしれませんが、柱にかけられたハマンの姿は、罪を犯したすべての者の行く末を表しています。ハマンがかけられた柱のはるかかなたに主イエスがかけられた十字架が見えるように思えました。私がかけられるべき柱に、神の子がおかかりになったことを…。

 よき週末、日曜日をお迎えください。


なんという…!

2017年05月19日 | エステル記

エステル記 6章

 きょうの「みことばの光」には、終わりに「神は常にご自身の民のことを覚え、守り、導いてくださる。それを、何気ない日常の出来事を通しても行なってくださる」とあります。

 ここに登場するアハシュエロス(アルタクセルクセス)王、ハマン、モルデカイは、それぞれのところで、それぞれの日常を送っていました。

 王は眠れない夜に、これまでの記録を臣下に読ませていました。その中に、モルデカイが王の暗殺計画を報告して王のいのちを救ったことが記録されており、王の頭はますますさえて、モルデカイにどのように褒美をとらせたらよいかと思い巡らしていました。

 ハマンは、愚かな進言を真に受けてモルデカイを縛りつけて処刑するための、20メートルにもなる高さの柱を立てることを上奏しようと、王宮に上って来ました。

 王は心にあることをハマンに伝え、結果としてモルデカイはハマンの進言に沿って栄誉を受けるのです。モルデカイは、自分の身に起こったことが何が何やらわからなかったのでしょうか。いいや、見えない神の御手が確かに働いているのを、突然王服を着せられ、王冠をかぶらされ、馬に乗せられる中で、強く覚えたことでしょう。

 ある人と通りでばったり会った、それがイエスを心に迎え入れるきっかけとなったということが身近にありました。「神のなさることは、すべて時にかなって美しい」との伝道者の書(コヘレト)3章11節のことばを思いました。


愚かな進言を気に入る

2017年05月18日 | エステル記

エステル記 5章

 きのうの気温は29度。あと一度上がれば日本で言う「真夏日」というところでした。夕方のウォーキングのついでに、アイス屋さんに立ち寄り、「アイスカフェ」を飲んで(食べて)きました。アイスカフェは日本のとは違って、無糖のコーヒーに、バニラアイスクリーム、さらに生クリームが乗ります。日本で言えば「コーヒーフロート生クリーム付」というところでしょうか。

 自分も、そしてシュシャンに住むすべてのユダヤ人も断食をして王への謁見を求めたエステル。王の好意を受けて、金の笏(しゃく)に触れることができました。王のことばから、エステルが王の寵愛を受けていたことを垣間見ることができます。

 エステルはハマンとともに自分が設ける宴会に出てほしいと願い、さらにもう一度二人で宴会に出てほしいと願います。このあとの展開を考えると、最初の宴席でエステルが王にハマンの悪巧みを明かさなかったことに、神の御手を見るのです。その晩にハマンが経験したこと、そして王が記録の書を読ませたことは、結末に向かって大きな意義を持つのです。宴会を二度持つということも、断食の中で神がエステルに授けた知恵だったのかもしれないと考えます。

 ハマンの行動を見ると、彼の人間性がくっきりと浮かび上がってきます。上機嫌から憤りへ。そして憤りを何とかしようと、友人や妻を呼んできて自分の自慢話を聞かせます。もう、ユダヤ人を絶滅するという法令が出されたのだから、「あんな奴放っておけ」と心を決めることもできたはずですが、そうではありませんでした。取り巻きたちはハマンに愚かな進言をします。それで気に入るのですから、ハマンの愚かさが際立ちます。

 心に湧いてくる苦々しい思いをどのように始末するかは、ハマンだけではなくて多くの人の課題です。


なぜここに…

2017年05月17日 | エステル記

エステル記 4章

 外を歩きましたら、ほとんどの人が半袖。初夏の陽気です。近くのプールでは泳ぐ人、日光浴をする人などがみられました。いつも行く郵便局では、入口でアイスクリームを売りはじめました。いつも受付にいる男性がアイスクリームを扱っています。郵便局もいろいろなことをするものだと思いました。買い求めたい誘惑を退け、1ユーロ切手を二枚買って郵便局をあとにしました。

 民族存亡の危機にあって、エステルがペルシヤの王妃だということが大きな意味を持ってきました。「みことばの光」が書くように、モルデカイが荒布をまとい、灰をかぶって町の真ん中まで来たのは、王妃エステルに事の重大さを知らせるためでした。信頼できる宦官を間にして、エステルとモルデカイとがことばを交わし合います。

 最初のうちは、王に謁見を求めるのはいのちの危険を伴うことだとエステルは尻込みしたようです。しかしモルデカイは、そんなエステルに立ち上がるようにと促します。「あなたがこの王国に来たのは、もしかすると、この時のためであるかもしれない」とのことばは、何度読んでも心に迫るものがあります。

 時々、なぜ自分たちはここにいるのだろうかと自問することがあります。「このためだ!」とはっきり答えられれば幸いですが、自覚している理由だけではなくて、何かの理由で神が自分を置いておられるのだと気づく場合もあります。

 そのような時、自分の理由が神の理由よりもまさってしまうことがないか、などということを考える箇所です。


憤りに満たされて

2017年05月16日 | エステル記

エステル記 3章

 気がついてみたら薔薇の花がそこかしこで咲いています。当地では、道ばたにも小さな薔薇が植えてありますし、もちろん個人の家にもあります。道ばたの薔薇は小さめ。ところで、薔薇を写真に収めようとしますとこれがなかなか難しいのです。特に、赤い薔薇の色がなかなか見たとおりに出ません。もっとも、私の場合はiPhoneを使っているので、そんな繊細な色味は期待できないのはわかっているのですが…。実際にお目にかけたいぐらい美しいです。

 花々は美しくて見る者の心を楽しませてくれますが、人の心はなかなかのものです。3章でエステル記はユダヤ民族絶滅という危機へと事が進みます。きっかけはユダヤ人モルデカイが、ほかの王の家来たちのようにはハマンに対してひざをかがめずひれ伏さなかったことにあります。

 「みことばの光」には、王がハマンにこのような命令を出すのは、「世間にはハマンを敬う思いが欠けていたからだろうか」とあります。家来たちがモルデカイに毎日のようにハマンにひれ伏さない訳を尋ねたり、モルデカイのことをハマンに告げ口をしたりすることからしても、ハマンがどのような人物で、どのようにして昇進したのかを想像することができるかもしれません。

 ハマンは、自分にひざをかがめないモルデカイのことで、彼だけにではなくて、彼の民族をも根絶やしにしようと企てます。5節に、「憤りに満たされた」ということばがあります。彼の憤りとはどのようなものだったのかと想像します。義憤ということばがあります。道に外れたこと、不公正なことに対して怒りを覚えるという意味ですね。しかし、ハマンのそれは違ったものでした。

 生活の中で、ちょっとしたことで憤りを覚える時に、「神の前にへりくだって知恵を祈り求め」、その憤りは何に基づくものなのかと立ち止ってみよとの促しをおぼえます。


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