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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

まして神は

2020年08月13日 | ルカの福音書

ルカの福音書 18章1−14節

まして神は、昼も夜も神に叫び求めている、選ばれた者たちのためにさばきを行わないで、いつまでも放って置かれることがあるでしょうか。」18章7節

 昨日のこの欄の写真は、降りしきる雷雨を部屋から写したものでしたが、南に5キロも離れていない所に住んでいる方のところでは、雷鳴は鳴ったけれども雨は降らなかったというのです。びっくり!

 18章前半は、祈りについてイエスが二つのたとえを用いて教えられたことを書いています。はじめのたとえは、不正な裁判官に諦めずに願い続けるやもめの姿。ここからイエスは、願い続けることが肝要であると教えられます。「まして神は…」という7節のことばに目が留まりました。ここには昼夜を分かたず叫び求める人がいます。神はどんな小さな、うめきのような祈りをも聞いてくださるお方。神が聞いておられないから叫び続けるのではなくて、あきらめずに神に信頼して時には声を大にして祈っているのか、との問いかけを覚えます。

 二つ目はパリサイ人と取税人の祈りのたとえ。パリサイ人に見られる、他者、特に自分よりも劣ると思っている人々と自分を比べて高ぶり満足する姿勢が、神への感謝の祈りになるというのは驚きです。けれども、自分を振り返るならば、気づかないうちに人と比べて安心したり落ち込んだりするのではないだろうか、と問われます。

 取税人の祈りには、他の人は入り込みません。自分と神だけ。そこから、「罪人の私をあわれんでください」との正直な祈りが神に届けられます。


神の国は…ただ中に

2020年08月12日 | ルカの福音書

ルカの福音書 17章20−37節

見なさい。神の国はあなたがたのただ中にあるのです。」17章21節

 猛暑が続きます。が、夕方に土砂降りの雷雨があり、一気に外気温は10度以上下がりました。暑さで焼けそうだった家の瓦もひんやりとしています。ありがたい夕立でした。

 17章後半には、パリサイ人の質問にイエスが答えたことと、それに関連しての弟子たちへの教えが書いてあります。

 パリサイ人が「神の国はいつ来るのか」とイエスに尋ねたのは、イエスを困らせようとしたとも考えられます。ルカの福音書には、「神の国」ということばが32回用いられています。イエスは神の国の福音を宣べ伝えて来られ、弟子たちをそのために遣わされました。また、「神の国はあなたがたのところに来ている」とも言われました(11章20節)。

 イエスに敵対していたパリサイ人たちは、イエスに「どこに来ているのか」「いつ来るのか」とあざけりを込めて尋ねたのでしょう。イエスの答えから想像すると、彼らは、「目に見える形で」「見よ、ここだ」「あそこだ」としてくるのだと考えていたのです。そんな彼らへのイエスの答えは、「神の国はあなたがたのただ中にあるのです」でした。すでに来ている、さらに言うと、彼らに対して「わたしだ」と気づかせようとしているのです。

 神の国はすでにあると話した後、イエスは弟子たちの視線を将来へと向けさせます。ここでは、神の国はすでにあり、やがて来るものだとも話すのです。イエスはそれを「人の子の日」と呼んでおられます。ご自分が再びおいでになる日のことです。

 どこに、そして何に望みを置いているのかと、問われます。


感謝をだれに

2020年08月11日 | ルカの福音書

ルカの福音書 17章1−19節

イエスの足もとにひれ伏して感謝した。彼はサマリア人であった。」17章16節

 月曜日、餃子を44個作りました。皮作りから始まり、中に入れる餡を作って入れ、焼いて食べました。前回は皮作りがちょっと…ということでしたが今回は学習の成果あり。さて、味はどうでしょうか。このブログを書き終えたら食べることになっています。⇨ とても美味しかったです。

 この部分でイエスはまず弟子たちに教えておられます。「しもべ(イエスの弟子)の心得」というべきものです。小さい者たちをつまずかせてはならないこと、しもべ同士で赦し合うこと、そして、自分がほめられることを求めないことです。

 10節のしもべたちのことばは、以前夏の子どもたちのキャンプに行っていた折、キャンプファイアーの場で、キャンプのいわゆる裏方として黙々と奉仕していたキッチンワーカー、グランドワーカーなどの皆さんが、キャンパーの「ありがとう」にこのことばで返礼していたものとして、今でも思い出します。

 ツァラアトに冒された10人はイエスによって癒やされるという出来事が続きます。これには続きがあり、祭司に見せて癒やしを宣言されたあと、戻って来たのは一人だけ、しかもその一人はサマリア人だったというのです。

 戻って来た一人は、イエスから「あなたの信仰があなたを救った」との宣言をいただきました。これこそ、彼を含めて体の癒やしを経験したすべての者が、じつは必要なことばでした。

 神への感謝を忘れないことを教えられます。それとともに、良くしてもらった相手に感謝せずにいるということを、クリスチャンがしているのではないのだろうか、とも問いかけられます。 

写真*成形前の餃子の皮


ひっくり返る価値観

2020年08月10日 | ルカの福音書

ルカの福音書 16章14−31節

モーセと預言者たちに耳を傾けないなら、たとえ、だれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない。」16章31節

 日本から、梅干しの写真が送られてきました。私たちのために漬けてくれました。

 ルカの福音書16章は、富・豊かさがテーマです。イエスはここで二つのたとえを用いて、最初は弟子たちに、次はパリサイ人たちに教えられました。イエスが教える相手は弟子たちやご自分について来る人々ばかりではなくて、イエスに敵対し、ここにあるようにイエスの話をあざ笑う人々にも届けられるのです。

 金銭を愛するパリサイ人たちは、イエスの何を聞いてあざ笑ったのでしょう。すぐ前の「あなたがたは、神と富に仕えることはできません」ということばです。「そんなことはない! 私たちは神にお仕えし、しかも富も持っている」というのが彼らの思いでした。

 当時の社会では、金持ちが天国の一番近くにいると考えられていました。確かに、富は神が与えられるもの、豊かなものは神の祝福をたくさん得ているものだと考えられていたのです。

 けれどもイエスは、彼らのこの考えが神の前に正しくないと明言されます。「人々の前で喜ばれるが、神の前では忌み嫌われる…」と。

 そしてイエスが話されたのは、「金持ちとラザロ」の話でした。これは彼らの価値観をひっくり返すものでした。天国に最も近いはずの金持ちがよみに、最も遠いはずのラザロがアブラハムの懐にいるというのですから…。

 よみの苦しみの中で金持ちは、家族までもこんな目には遭わせたくはないので、ラザロを送ってほしいと願うのですが、アブラハムが断るというのが話の終り。最後のことばが心に留まります。

 神に仕えている、富も持っていると自己満足に浸っていた彼らが、実はモーセと預言者に耳を傾けていないのだと、イエスはここで断じるのです。

 私は今、何を喜び何に満足しているのだろう。


「そんな息子」

2020年08月08日 | ルカの福音書

ルカの福音書 15章25−32節

おまえの弟は死んでいたのに生き返り、いなくなっていたのに見つかったのだから、喜び祝うのは当然ではないか。」15章32節

 Am---を利用して、切らした煎茶と抹茶を購入。煎茶はとても美味。そして抹茶。しかし「ポチっ」としたのがどうも「TURMERIC MATCHA」だったことが届いてみて判明。返品するのもなんだしと、抹茶に香辛料ターメリックが混ざっているのはあるのか調べてみましたら…、ありました! 健康的な飲料として抹茶と生姜、「抹茶・ターメリックラテ」が飲まれていると…。早速作って飲んでみると、いけます。

 前置きがたいへん長くなってすみません。ここは「放蕩息子(を待つ父親)の話」の後半、兄の怒り、父のとりなしと話が展開します。

 兄はだれに怒っているのでしょう。弟はもちろん、弟を両手を挙げて迎えて祝う父親をも怒っているのです。兄の弟への冷ややかな姿勢は、30節から伝わってきます。兄は弟を「息子」「あんな息子」と呼び捨てます。兄弟ではないとするのです。

 イエスが誰に向けてこのたとえを話しているのかを考えるなら、ここで弟、父親を怒っている兄とは、いわゆる「正しい人」であるパリサイ人や律法学者のことだと分かります。しかし、それだけではありません。まじめに神さまを礼拝し、奉仕をし続けるクリスチャンも間違うとここで怒っている兄だと言えなくはありません。

 父は兄の怒りをなだめるようにして話します。父親の兄への思い、そして弟への思いに違いがないということが伝わってきます。それも、兄の怒りを激しくするのかもしれませんが…。

 父親の話を聞いた兄は、この後どのようにしたのでしょうか。イエスさまの話はそこには言及しません。余計に想像が膨らみます。


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