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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

家までは遠かったのに…

2020年08月07日 | ルカの福音書

ルカの福音書 15章11―24節

 「ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけて、かわいそうに思い、駆け寄って彼の首を抱き、口づけした。」15章20節

 熱波が来るとのことで、きょうから来週木曜日ぐらいまでは、気温がぐっと上がるとの予報が出ています。暑さの中でのマスクは、厳しいものがありますね。

 罪人(つみびと)たちと一緒に食事をしていると文句を言った「正しい人たち」へのイエスの話の三つ目が「放蕩息子の話」としてよく知られているものです。わがまま勝手な弟息子が放蕩三昧の挙げ句、父親のところに戻って行ったところ、父親は彼の帰りをたいそう喜び、息子として迎えて大きなパーティーをしたというのが、この話の前半。

 読むたびに、20節の家まではまだ遠かったのに、父親が彼を見つけたということばからあれこれと想像します。「親不孝な奴だ、帰って来ても赦さない」と怒るのでなく、「帰って来て謝ったら赦してやろうか」と悠然と待つのではありません。

 家まではまだ遠かったのに父親が彼を見つけたということばから、息子が家を出て以来この父親がどのような思いでいたかが伝わってくるように思います。「反省のことばを聞きたい」でもなく「謝ったら家に入れてやるでもなく」見つけると駆け寄って抱きしめたのです。人間関係でしばしば見られる絆、愛をはるかに超えた愛をこの父親の姿に見ます。

 駆け寄る父親の姿に、永遠の隔てを超えて人として来られたイエスが重なります。ありがたい…


一緒に喜んで

2020年08月06日 | ルカの福音書

ルカの福音書 15章1−10節

一緒に喜んでください。」15章6、9節

 本章には、イエスによる三つの話が収められています。どれも、なくしたものやいなくなった人を見つけ、見つかったら周りの人と一緒に喜ぶのです。

 イエスがこの話をするきっかけが1−2節にあります。まず、イエスのところに取税人や罪人たちがみな、話を聞こうとしてやって来ます。ルカが記す「みな」ということばに驚かされます。大勢が、しかも2節から分かりますが、周りから「罪人」と呼ばれている人々が大挙してイエスのところに来たというのです。

 当然、その様子に当時の「正しい」人々がイエスに横やりを入れます。あんな罪人たちと一緒に食事をしているというのです。社会的に問題のある人たちとつき合っていると咎めています。三つの話は、それを受けてイエスがいわゆる「正しい人たち」に話したものだということが分かります。

 はじめの二つは、持ち主が失った自分のものを見つけるまで探すという話です。100匹の羊のうちの1匹、10枚のドラクマ銀貨のうちの1枚。持ち主になってそれぞれはなくしてはならないものです。仕方がないとあきらめないのです。

 一匹の羊一枚の銀貨は、イエスにとっては「罪人たち」と切って捨てられている人々。その彼らが「みな」私のところに話を聞こうとしているのを、どうして喜ばないでいられようかと伝えたいようです。

 一緒に喜んで…とイエスさまから呼びかけられたら、何のためらいもなく喜びの輪の中に加わるだろうかとも考えるのです。


振り向いて言ったこと

2020年08月05日 | ルカの福音書

ルカの福音書 14章25−35節

「イエスは振り向いて彼らに言われた。」14章25節

 隣に不思議な木があります。一つの木なのに二種類の実がついているのです。一つはプルーン、もう一つはミラベル。どちらも好物。でもよそ様の実を食べてはならないので、眺めて楽しんでいます。接ぎ木によるものなのでしょうね。ちなみに、ミラベルは西洋スモモとあり、フランスの果物として知られているのだそうです。とても美味しいですよ!

 美味しい果物の話の後は重い話。ここでは、ついて行こうとする者にイエスが厳しい覚悟を求めておられます。「大勢の群衆がイエスと一緒に歩いていたが、イエスを振り向いて彼らに言われた」と25節にあります。ルカの福音書では、9章51節からイエスのエルサレムへの旅が始まりました。その旅は十字架への道。イエスは死に向かって旅を続けておられるのです。

 この時大勢の群衆はなぜイエスと一緒に歩いていたのだろうかと、イエスの厳しいことばから想像します。イエスについて行くならよいことが待っている、よい経験ができるとの期待も多かったのではないでしょうか。しかし、彼らがイエスとこれからもずっと一緒に歩いたとしたら、待ち構えているのは苦難と死。そこまでついて来るのかという覚悟のようなものを求められたのです。

 26節には「憎む」とあります。大切な家族を、そして自分さえも憎むのだと言うのです。イエスはここで、ついて来る者がご自分を他の誰よりも、自分自身よりも、愛するのだと求めておられるのです。

 ここでイエスが言っておられるのはどれも、ついて行こうとする者に求められている覚悟。生半可ではならないのです。


最重要の招待

2020年08月04日 | ルカの福音書

ルカの福音書 14章15−24節

「無理にでも人々を連れて来て、私の家をいっぱいにしなさい。」14章23節

 コロナ禍にあって日本では今、「Go to …」を展開中。それでいて感染を高齢者に拡げないよう盆の故郷への帰省をどのようにしたらよいのかということで、政府が苦慮しているということが報じられています。「不要不急の…」ということばが用いられるようになって久しいですが、どうしても行かなければならないことであったら、何があってもそこに行くということではないかと考えたりしています。「上(うえ)」の迷走に戸惑う人もいることでしょう。

 ここで主イエスがたとえを用いて教えているのは、イエスと一緒に食事をしている人が言った「神の国で食事をする人はなんと幸いか」ということです。食事に招待されていて、一度は招待に答えていながら、やれ畑を売ったからとか、牛を買ったからとか、結婚したからという理由で招待を断るのはたいへんに愚かな行動であり、招待した主人を怒らせるようなことだということになるのです。

 このたとえで、主人は神様、しもべはイエス様、そして招待された人たちは神の選びの民であったイスラエルの民と考えられます。そして、無理やりに主人の食卓に連れて来られたのは、いわゆる宗教家たちが毛嫌いしていた取税人や罪人、そして異邦人とユダヤの人々が呼んでいた人々のことだと分かります。そしてこのたとえの前後には、イエスとイエスを敵視するパリサイ人や律法学者たちとのやり取りがありますので、聞いた人たちはイエスのたとえの意味が、今の私たち以上によく理解できたのです。

 ここでの主人がかなり強引な感じもしないわけではありませんが、それだけ主人の一緒に食事をしたいという熱意ゆえの態度だということが分かります。ですから、「私の家をいっぱいにしなさい」との23節のことばから、私は神の熱い思いを覚えるのです。

 神にとっての最重要の招待は、実は私にとっても最重要の事柄。それを断ることのできる理由など一つもあるはずがないのです。ところが、いろいろなことが神からの招待より上位にあるのでは、と気づかせてくれるたとえです。


沈黙の意味

2020年08月03日 | ルカの福音書

ルカの福音書 14章1−14節

「彼らは黙っていた。」 14章4節

急な雷雨はお天気が変わるきっかけになることがありますが、日曜日深夜いや、早朝の雷雨もそうでした。激しい雨音と雷鳴に目覚めて、開いておいた天窓を次々に閉めたのですが、よく目が覚めたものです。

 安息日を巡っての律法の専門家、パリサイ人とイエスとの緊張はなお続きます。本日の「みことばの光」では7節以降を解説していますので、私はその前の箇所に目を留めてみたいと思いました。

 1節に、イエスは食事をするために、パリサイ派の指導者の一人の家には入られたとあります。何か、値踏みをされるようなこんなところで食事などしても何の味も分からないというような状況でしょう。

 ここからは、「沈黙の不気味さ」のようなものが伝わってきます。そこに病を患っている人がいました。うがった見方をすれば、安息日にイエスがこの人の病を癒すなどしたら、一斉に「安息日違反」と攻め立てるのを待ち構えているような雰囲気です。

 しかし、イエスは呑み込まれることなく、かえってイエスの揚げ足を取るために入る彼らに問いかけます。「安息日に癒やすのは律法にかなっているでしょうか、いないでしょうか」と。この質問はイエスの隙を狙っていた人々の虚を突いた感があります。彼らは沈黙します。この沈黙はどちらに答えても相手から突っ込まれる恐れがある場合に生じるもののように思います。

 彼の病を癒して家に帰らせた後、イエスはパリサイ人たちにさらに問われます。ここでも答えも明らかです。自分の息子、あるいは大切な家畜が穴に落ちたならば、安息日だから今は何もしないで、日没を待とうなどという行動はとりません。いのちのために彼らはいつでも動きます。6節は、自分たちの理屈の行き詰まりを物語る沈黙です。

 さて、自分はどんな時に沈黙するのだろうか…とここから思わされました。イエスが問われたら、私はどうするだろうか…、と。


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