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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

主の名によって歩き回る

2017年03月24日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 10章

 きのうはコートを脱いでの外出でした。陽射しもだいぶ長くなり、日の入りは午後6時43分。これから夏至まではどんどんと日の入りの時間が遅くなります。歩き回るのに良い季節になりました。

 10章には、イスラエルの民を主が回復し強めるという主の約束が記されます。ここにはユダの名前ばかりでなく、「ヨセフの家」「エフライム」という名前もありますので、イスラエルの民全体が主によって強くされることが語られています。

 この章のどこにメシヤを認めることができるでしょうか。4節の「この群れから…」ということばに目を留めましょう。「この群れ」とは前の節を読むと「ユダの家」のこと。ユダの家から、「かしら石」「鉄のくい」「いくさ弓」が出て来るというのです。「かしら石」とは、聖書辞典によると「建築の最後を飾って建物全体を一つに結び合わせる大切な石のこと」だとあります。神殿の建築中に一つの石が捨てられたという言い伝えがあり、それが新約聖書でキリストを指すとされました。

 励ましを得たのは、「彼らの力は主にあり、彼らは主の名によって歩き回る」という12節のことばです。これは、メシヤによって回復されるイスラエルの民の様子を描くものですが、既にそれは、イエスをキリストと信じる者によって実現していると考えることができます。前にも書きましたが、この3月で二人の方が日本に帰国します。ドイツにある他の日本語教会でも同じようなことが今月に起こっています。寂しさを覚えながらも、帰国する人々が祖国で、そしてまた違う国で「主の名によって歩き回る」のだと思うならば、喜びが湧くのです。

 3−4月は日本では移動の時期。主にある人々が12節の約束のごとくになるようにと祈ります。


望みを持つ捕らわれ人

2017年03月23日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 9章

 本章から、ゼカリヤ書の後半が始まります。「みことばの光」の「ゼカリヤ書9−14章を読む前に」には、ここには、ゼカリヤの時代から先に起こることについての預言が記されており、その中心はメシヤ(救い主)が来るということについてだとあります。

 9節の預言は、主イエスのエルサレム入城の際に実現しました。旧約聖書の中に、新約聖書で馴染みのある(?)ことばが出てくると、ホッとするというか親しみを覚えるのではないでしょうか。

 12節の「望みを持つ捕らわれ人」という不思議なことばに目が留まりました。「捕らわれ人」というと、ゼカリヤ書から思うのは、捕らわれ人として多くの民がバビロンに強制的に移されたという出来事を思うことでしょう。しかし、神は彼ら(その子どもたち)をそのままにはしておかれませんでした。ゼカリヤ書は帰還した民に神がゼカリヤによってお語りになったことばによって成っています。

 人は何によって捕らわれているのだろうか、考えてみました。実際に何らかの大きな束縛の中に置かれている人もいます。また、ある人々は自分が何かに捕らわれているという自覚を持ちません。もし、私たちが創造主である神との結びつきを持ち得ないのだとしたら、だれもが罪と死によって捕らわれているのだと言えます。けれども、望みがあるのです。その望みとは自分の側にあるのではなく、「雌ろばの子の子ろばに」乗って、エルサレムにお入りになった「王」お一人にかかっているのです。


勇気を出せ

2017年03月22日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 8章

 月曜日に、欧州を旅している友人から荷物を送るとの電話がありました。そして、きのうの夕方荷物が届きました。開けてみると…、まあ! 最中、あられ、黒豆のおやつ……どれもが高級な和菓子! 懐かしい八朔も入っていました。年甲斐もなくお菓子を送っていただき、二人で興奮し喜んでいます。

 8章を読んで自然に顔がほころび、嬉しくなりました。ここには、神からのすばらしい約束、命令(励ましのことば)、そして祝福の情景が描かれています。

 節を追って書き出してみました。(もっとあります。なさってみてください)

[主の約束]

・わたしは、シオンをねたむほど激しく愛し、ひどい憤りでこれをねたむ。(2節)
・わたしはシオンに帰り、エルサレムのただ中に住もう。(3節)
・再び、エルサレムの広場には、老いた男、老いた女がすわり、年寄りになって、みな手に杖を持とう。町の広場は、広場で遊ぶ男の子や女の子でいっぱいになろう。(4-5節)
・わたしの民を日の出る地と日の入る地から救い、彼らを連れ帰り、エルサレムの中に住まわせる。(7-8節)
・わたしは真実と正義をもって彼らの神となる。(8節)

[主の命令]

・勇気を出せ。(9節)
・恐れるな。勇気を出せ。(13節)
・互いに真実を語り、あなたがたの町囲みのうちで、真実と平和のさばきを行え。(16)節
・真実と平和を愛せよ。(19節)

[祝福の情景]

・「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ。」(23節)

 

 ここで約束されていることが完全に実現する日は先のこと。しかし、これを聞いたゼカリヤも人々も、目の前の困難を乗り越え神の宮を建て上げるのだという思いを、強く抱いたに違いありません。「私たちもあなたがたといっしょに行きたい。神があなたがたとともにおられる、と聞いたからだ」という情景が、今も力強く実現していることを感謝し、期待します。


だれのために

2017年03月21日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 7章

 「見かけと中身とは違う」となると、食べ物でも何でもがっかりします。日本では蝋(ろう)で精巧に作った「食品サンプル」というものがありますが、サンプルを見て注文してみたらずいぶん貧相に見える料理だったなどということがあります。食べ物ならば、「まあ、いいか」と思って終わりでしょうか。けれども、人となると厄介なものです。宗教に対して警戒心を抱いたり失望したりするというのは、よいことをいっているのだが、実際にやっていることを見たらというようなことが度々あるからなのかもしれません。

 イスラエルの主要な人々がバビロンに捕囚された七十年の間、人々はいつも以上に断食をしていました。ベテルの人々は、捕囚から帰還しエルサレムには神の宮が建て直されようとしている今、自分たちはいつまで断食して泣かなければならないのかと、エルサレムの祭司や預言者に尋ねさせました。

 ゼカリヤによって主がお答えになったのは、あなたがたの断食も、その他のものも、だれのためにしてきたのかということでした。結局は自分たちのためでなかったのかと問われたのです。

 見せかけは良くても、実際はそうではないということにすぐにはまり込んでしまうのですから、「だれのために…」というのは、何事かをする際に常に自分に、自分たちに問い続けなければならないことです。どうすれば…。神は私に語ってくださると信じ、聴き続けることが自分を偽善の罪から守る一つではないでしょうか。

 「みことばの光」の祈り:「主よ、私を表面的な信仰や偽善からお守りください。自己中心的な信仰から私を自由にして、あなたのために実を結ぶ人生を送らせてください。」


その名は若枝

2017年03月20日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 6章

 きのうは、教会に集う二人の方の当地最後の礼拝。一人は日本に帰国、もう一人は日本に一旦帰国後アメリカへと渡って行きます。私たちが当地に来てからのおつき合いでしたので、二年足らずということになりますが、ともに礼拝し、みことばを読み合った仲。寂しさは禁じ得ません。これがこの教会の姿なのだと改めて思わされました。みなで、神の祝福を祈り求めました。

 6章後半には、大祭司ヨシュアに金と銀で作った冠を被せるようにと、主が預言者ゼカリヤにお与えになった命令が書かれています。「みことばの光」が書くように、ヨシュアは祭司ですから、王冠を通常はかぶることはありません。12節の「若枝」というのは、この場合はゼルバベルを指しているのというのが妥当だと思うのですが、それなら、なぜゼルバベルにではなくヨシュアに冠が…と思うところです。大祭司ヨシュアに冠が被せられるというのは、これがやがて来るメシヤについての預言だからです。ということは、ここでゼルバベルもヨシュアも、二人合わせてメシヤの型を担っているのです。

 人々はろばの子に乗ってエルサレムに入城するイエスを王として迎えました。また、特にヘブル人への手紙には、「イエスがまことの大祭司としてご自分の地によって、タダ一度、まことの聖所に入り、永遠の贖いを成し遂げた」と書かれています。⇒ヘブル人への手紙9章11−13節

 「私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。罪は犯されませんでしたが、すべての点で、私たちと同じように、試みに会われたのです。ですから、私たちは、あわれみを受け、また恵みをいただいて、折りにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。」ヘブル人への手紙4章15、16節

 日本は祝日ですね。良い一日を!


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