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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

城壁のない町

2022年03月16日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 2章

 昨日は、「ネットグループデボーション」に加えていただきました。読み始めたゼカリヤ書1章をいっしょに読んで分かち合いました。分かち合うと分かり合えるということを思いました。それは聖書を分かり合えるということだけでなく、互いを分かり合えるという意味でもあります。緊張と分断の世で、「分かり合える」ことができたらと願いつつ祈っています。

 ゼカリヤ書の前半には、まずゼカリヤが見た8つの幻が記されています。ここには三つ目の幻が描かれています。それは、エルサレムを守られる神についての幻です。注目すべきは「エルサレムは…城壁のない町のようになる」という4節のことば。城壁は町を守るためのもの。当地でも古い町を訪ねると城壁に囲まれた中で人々の生活が営まれています。

 ゼカリヤの頃のエルサレムは、神殿の再建工事が中断されたままで、町を守っていた城壁も破壊されていて役目を果たしてはいませんでした。捕囚から帰還した人々は心細い思いで生活していたかもしれません。しかし主は、「わたしが それを取り巻く火の城壁となる」と約束しておられるのです。

 6−7節は、バビロンに捕囚されていた人々がシオン(エルサレム)へと戻って来る様子が描かれています。シオンがなぜ逃れの場所となるのか城壁もないのに…。それは、主がエルサレムの「ただ中に住み」、町を守っておられるからです。

 「主が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい。主が町を守るのでなければ 守る者の見張りはむなしい」という詩篇127篇1節のことばを思います。

 ここにある幻はいつ実現するのかを考えてみます。実際のエルサレムを指しているのでしょうか。新約聖書の光に照らしてこの箇所を読むなら、この幻はイエス・キリストによって実現します。さまざまな「城壁」を自分の周りに巡らすのでなく、主が私を、私たちを守ってくださるというのは揺るがない事実なのです。


赤い馬に乗る人

2022年03月15日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 1章

 昨日から、聖書をどのように読み、どのように分かち合うかについてのセミナーが始まりました。すべてオンラインでの集まりなのですが、3週間にわたって同じグループでの取り組みが続きます。私が属しているのは家庭や子どもたちについてのグループ。15名ほどの中に10年近く前にトルコで会った方がいてびっくり。

 ゼカリヤ書を読み始めました。「みことばの光」にある「ゼカリヤ書を読む前に」の終わりに、「主の大いなる救いの計画は人の思いをはるかに超えて大きい ー そのことをありのままに示しているのが、このゼカリヤ書である」ということばがあります。人の思いをはるかに超えた神の計画の進展のさなかに、私たちがいるということを意識して読み進めたいと思いました。

 初めに「ダレイオス王の第2年、第8の月に…」とあります。時は紀元前520年、イスラエルの民の一部がバビロン捕囚から帰って来たのが538年。そしてその頃の王キュロスの許しを得て、536年にエルサレム神殿の再建工事に着手した彼らは、妨害ゆえに長い間の中断を経てようやく工事を再開します。

 再開の契機になったのは二人の預言者によって語られた神のことば。初めはハガイです。彼はダレイオス王の第2年、第6の月、民に「宮を建てよ」との神からのことばを伝えます。さらに第7の月にもハガイは、「仕事に取りかかれ」とのことばを届けます。そしてもう一人の預言者がゼカリヤです。すぐ前のハガイ書とゼカリヤ書を読み比べますと、二人はほぼ同じ時期に、神から民へのことばを取り次いでいたことが分かります。

 1章で目に留まるのは、ゼカリヤが何度か主に尋ねていることです。馬を見て尋ね、四つの角を見て尋ねています。8節の「一人の人が赤い馬に乗っていた」ということばに目が留まります。この人が従えるかのように馬に乗った人々が続いているのでしょう。彼らは「地を行き巡るために主が遣わされた者たち」だと御使いはゼカリヤに伝えます。

 今地で何が行われているのかを、主はしっかりと見ておられるということに、希望と慰めを持つことができるのだと、ここから考えています。


主の日が来る

2017年03月28日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 14章

 春の陽射しの中、森の中を歩きました。地面には花が咲き、木々は芽吹き、鳥たちがさえずっています。その中を遠慮気味に歩かなければ…というような気持ちになりました。

 「みことばの光」が書くように、ゼカリヤ書の終章はエルサレムの敗北から始まります。驚くことに、エルサレムはすべての国々によって攻められるとあります。さらに、それを主がなさるというのにもっと驚かされます。ここは、ヨハネの黙示録11章にある都が獣によって踏みにじられるという場面と重なります。しかし、そこに主が出て来てその国々と戦われるのです。

 興味深いのは、主の足がエルサレムの東にあるオリーブ山の上に立つと、山が二つに裂けて、東西に延びる大きな谷ができるという預言です。「みことばの光」はこのことについて、「だれもが新しいエルサレムに近づくことができるようになったことを象徴する」と書きますが、5節を読みますと、エルサレムから人々がこの谷を通って逃れられるためにということだと考えられます。

 主がおいでになるまでには、苦難を通され悲惨な出来事も経験するけれども、それでも主に信頼することを促しているのではないでしょうか。5節の「私の神、主が来られる」ということばは、すべてを変えることば。この日を待ち望んでいるのかと自分に問うのです。


罪と汚れをきよめる泉

2017年03月27日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 13章

 日曜日は、ケルンにある日本語教会を訪ねました。いつものように、iPhoneに入れた地図アプリをナビゲーションとして便利に用いましたが、詰めの所で道を間違え、ちょっと遠回り。ナビは間違っていなかったのですが、ナビを読み取る私がミスをしました。聖書を読み違える自分の姿が重なりました。

 1節の「罪と汚れをきよめる一つの泉が開かれる」とのことばから思うのは、エゼキエル書47章に描かれている情景です。聖書をお持ちの方は、エゼキエル書47章を開いてみてください。エゼキエルは、神殿の敷居の下から東の方へ水が流れ出ているのを見ます。水かさは足首からひざ、そして腰の深さにまで増し、やがて渡ることのできないほどの川になり、やがてアラバに下り海に入ります。アラバというのは、ヨルダン川が流れる地を含むパレスチナを北から南に縦断する低地のことです。ですから、エゼキエル書47章8節の「この水は東の地域に流れ、アラバに下り、海に入る」ということばの「海」とは死海を指しています。

 驚くことに、「海に注ぎ込むとそこの水は良くなり、…あらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる」とまで言われています。今の死海は、浮遊体験をするには大変良いのですが、高い塩分濃度ゆえに一匹の魚も生息しません。けれども、エゼキエル書47章にはさらに驚くようなことが書いてあります。「漁師たちはそのほとりに住みつき、エン・ゲディからエン・エグライムまで網を引く場所となる。」死海で網を引くという、信じ難いことが起こるのだと言われるのです。

 けれども、それにも増して信じ難いのは、人間の罪と汚れがきよめられるということではないだろうか、と思い巡らすのです。「みことばの光」が引用した聖句をここにも記します。

 「御子イエスの血はすべての罪から私たちをきよめます。」ヨハネの手紙第一 1章7節


がまんできなくなり

2017年03月25日 | ゼカリヤ書

ゼカリヤ書 11章

 旧約聖書に登場する預言者は、時には神がお命じになることをしなければなりません。預言者はことばを語ることによってだけでなく、その身をもって神のことばを人々に伝えたのです。

 ゼカリヤは主から、「ほふるための羊の群れ」を養うようにと命じられます。悪い牧者に飼われた後で、やがて売られ、ほふられる羊を飼うのです。牧者の努力が失敗することが初めから明らかだというのは、どうにもやり切れません。案の定、牧者ゼカリヤは彼ら(羊たち)にがまんできなくなり、彼らの心もゼカリヤをいやがったとあります。ゼカリヤはまず「慈愛の杖」を折り、次に「結合の杖」も折ってしまいます。

 「がまんできなくなり」に目が留まります。牧者として羊を飼ったゼカリヤの思いが強く表れることばです。それほど羊たちは、牧者を受け入れようとしなかったのです。

 ゼカリヤ書後半はメシヤについての預言だと書きました。「この方はご自分のくにに来たのに、ご自分の民は受け入れなかった」(ヨハネの福音書1章11節)ということばを覚えますし、ゼカリヤが羊の商人からもらった銀30シェケルは、イエスを裏切ったユダが受け取った銀貨30枚に通じると読めます。

 けれども、主イエスは羊たちのためにご自分のいのちをお捨てになるのです。


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