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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

知ることと歩むこと

2020年12月08日 | ホセア書

ホセア書 4章

 当地の冬は、明るくなるのが遅く、暗くなるのが早く、しかもどんよりとした天候が続きます。だからこそ、アドヴェントの頃には町々にクリスマス市(いち)が立ち並ぶのは、心が少しでも暖かく明るくなるようにという、過ごし方の知恵なのでしょう。しかし今年は、そのクリスマス市が中止。そのような中、私たちはとにかく一日に一度は外に出て歩くことを心がけています。きょうも夕方少し暗くなってから近くのスーパーに遠回りしての買い物です。それだけで6500歩ほどでした。

 4章は「主のことばを聞け」に始まります。そして、1節にはイスラエルに悪がはびこるのはなぜかが明らかにされます。それは、彼らには真実、誠実、そして神を知ることがないのです。神を知ることによって人は真実とは、誠実とは何かを学び、それを生活に具体的に表していきます。けれども、大元がすっぽりと抜け落ちているのです。

 4節以降で、神は祭司を厳しく責めておられます。それは、祭司は彼らに「知識」を与えるつとめを受け持っていたからです。彼らが神のことばを教え、正しい知識を与えることを怠ったために、イスラエルがどんなに増えても、どんなに熱心に宗教的な行事に励んだとしても、それは全くの的外れなのです。14節は、姦淫してもよいと言っているのではあります。祭司の罪があまりにも大きいことを強調しているのです。

 聖書を読む、聖書について学んで「主のことばを聞く」ということを続けていても、真に神を知ることにつながっているのだろうかと問われます。神を知ることと自分の毎日の生活がつながっていると言えるだろうという問いかけを受けています。


愛しなさい

2020年12月07日 | ホセア書

ホセア書 3章

 アドヴェント(待降節)第二日曜日をどのようにお迎えになりましたか。礼拝でお借りしている教会の庭に置いてある〝家畜小屋〟に今週はろばが入りました。小屋も少しきれいになりました。今年は、少しずつ登場人物(動物)が加えられていくようですね。

 3章は短く、5節で終わるのですが、書かれているのは重い内容です。預言者ホセアは、神のことばを受けてそれを語るという務めを果たすだけでなく、生活と語っていることと結びついているのです。しかもそれは、受け入れ難いような厳しいこと。具体的には、ほかの男と「姦通している妻を愛しなさい」というものでした。きょうの「みことばの光」には、「1節と2節の間には、語られていない大きなたましいの谷間が垣間見える」と解かれていますが、そうだと思います。

 「聖書は行と行との間を読む」ということを聞いたことがありますが、それは簡単ではありません。しかし、「自分ならどうするのだろう」という問いかけを続けていく中で、ことばとことばの間の人の心の動きに思いが行くようになるのではないでしょうか。

 ホセアにとって姦通している妻を愛して買い取るということにはどのような益があるのだろうかなどと考えるなら行き詰まるかもしれません。「こうすれば益になる」などという思いは、この預言者にはなかった、いや、捨てなければならなかったのです。

 本来なら、叱り飛ばしても問題ないような裏切り者に対して、「これから長く、私のところにとどまりなさい。もう姦淫したり、ほかの男に通じたりしてはいけない。私、あなたのところにとどまろう」と言えるのは、優しすぎることば。しかしそれは、ホセアの内側にあるものではないのです。このことばは、神の罪人に対する絶えざる語り掛けなのですから…。


初めの夫のところに戻ろう

2020年12月05日 | ホセア書

ホセア書 2章

 昨年のクリスマスに訪ねて来くださったご家族からのプレゼントを窓辺に飾りました。「ヘルンフートの星」と言います。ヘルンフートとは「主の守り」と呼ばれるドイツ東部の町で、モラビア兄弟団はこの地に共同体を形成したことから、別名ヘルンフート兄弟団とも呼ばれます。ここの学校で学んだ子どもたちが、クリスマスが近づくと作るようになったので「ヘルンフートの星」だと聞いたことがあります。

 2章1節は、1章に続くものと考えることで意味が通じるます。特に1章11節にユダの人々とイスラエルの人々とが一つに集められると約束されているので、それを受けての回復と、一つになることの喜びを語ったものだと考えられます。

 しかし、2節以降ではホセアの妻ゴメルの行状とイスラエルの神への不信とが重ねられるようにして描かれていきます。愛人のところについて行こうとする妻を、あらゆる術を用いてとどめようとする夫の姿は、夫を裏切っても戻って来てほしいという思いが現れています。自分の利益、快楽実現のためについて行った相手が自分を心から愛してくれるはずもありません。やがて妻は気づくのです。

 「私は初めの夫のところに戻ろう。あのころは今よりも幸せだったから」という妻のこころからのことばは、父の家を出て好き勝手をし、挙げ句の果てに一文無しになって惨めな思いをしていた、あの弟息子のことばに重なります。「父のところには、パンのあり余っている雇い人が、なんと大勢いることか。それなのに、私はここで飢え死にしようとしている。」ルカの福音書15章17節

 勝手に夫を捨てて愛人のもとに走りまた夫のところに戻ろうという、身勝手に見えるような行動であったとしても、戻っていくのならば神は赦し受け入れてくださる…。だとしたら、今がどんなところにいようが、神に顔を合わせることなどとてもできないようなことをしていようが、向きを変えて必死になって神のもとに帰る…、教えられたのはこのことです。


ことばに従って生きること

2020年12月04日 | ホセア書

ホセア書 1章

 昨日は夕方隣町まで用事で出かけました。そのあと、少し街を歩くことにしました。小さな町ですので、人も少なくホッとしました。クリスマス市(いち)はありませんが、お店のショーウィンドウには美しく飾られていました。

 「みことばの光」では9―11月にエレミヤ書を読み、エレミヤが語ることばだけでなく、預言者として召された彼の厳しい行き方を読み、確かな希望を持ちながらも重い気持ちで読み終えました。そして詩篇を三日読んで少しの安堵を得たと思ったら、きょうからはホセア書です。

 ホセアはエレミヤの時代からさかのぼってユダの王、ウジヤ、ヨタム、アハズ、ヒゼキヤの時代に北王国イスラエルで神のことばを届けた預言者でした。同時代、イザヤやミカは南王国イスラエルで預言者として務めを果たしていました。

 ホセア書のはじまりには驚かされます。主はホセアに、「姦淫の女と姦淫の子らを引き取れ」と命じるところから本書は始まります。「はい」と従って、結婚をし3人の子を設けます。ゴメルとの結婚によって、また子どもたちに付ける名前の意味によって、彼はイスラエルが姦淫する、つまり神に背く罪のゆえに、イスラエルは終わらせられるとのメッセージが届けられるのです。

 姦淫した女を受け入れ愛するのは、非常に難しいこと。しかし、そのように踏み出すことは、神が姦淫のイスラエルを愛しておられるということを、ホセア自らが葛藤を重ねる中で知ることとなるのです。

 神のことばだけを語っていればよいというのでなく、ことばに従って生きることが求められるというのは、ホセアだけではありません。


主の道は平ら

2015年12月17日 | ホセア書

ホセア書 14章

 

 我が家の玄関とリビングの間にドアをつけてもらいました。下の部屋をリフォームしている大工さんがいたので、大家さんにお断りしてから頼みました。頼むのも辞書と首っ引きですが、あまりお話をしなくてもよくわかってくれたようです。ドア一つで部屋らしくなるのが不思議ですね。ずいぶんと落ち着いたリビングになりました。

 ホセア書はきょうでひとまず読了です。「みことばの光」巻末にある「毎日聖書を読む聖書同盟の方法」の中の「考える」に沿って、この章にある神からの命令、祝福の約束、そして神はどのようなお方かとの三点について、おおざっぱにことばを拾ってみました。

命令 ・イスラエルよ。あなたの神、主に立ち返れ。 ・あなたがたはことばを用意して、主に立ち返り、そして言え。

約束 ・わたしはイスラエルには露のようになる。 ・わたしが答え、わたしが世話をする。あなたはわたしから実を得るのだ。

神はどのようなお方か ・呼びかけるお方 ・与えるお方(悔い改めのことばさえも用意する)・いやし愛するお方 ・答え、世話をするお方 ・道を用意されるお方

 「主の道は平らだ」とのことばを心に留めました。彼らは約束の地で、ほかの道を選んで大変な目に遭いました。祝福を約束をしておられる主がご自分の民のために置いておられる道は平らだというのです。「これが道だ。これに歩め」(イザヤ書30章21節)というみことばも聞こえてきます。


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