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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

わたしを忘れた

2015年12月16日 | ホセア書

ホセア書 13章

 クリスマスカードが届く頃となりました。私たちもせっせとカードの宛名書きをしてポストに入れていますが、間に合う…でしょうか。

 13章では、イスラエルに罪の刑罰の宣告がなされています。彼らは、神を捨てて偶像を拝むようになりました。出エジプトをなしてくださった神への感謝を忘れてしまいました。神ではなくて王を信頼しました。さばきを目の前にしているのにそれでも自分を信頼していました。

 心に留めたのは6節の「しかし、彼らは牧草を食べて、食べ飽きたとき、彼らの心は高ぶり、わたしを忘れた」ということばです。約束の地に定着し、繁栄するようになると、彼らは高ぶってしまった、そしてこれまで変わらずに彼らを導き、支えてこられた主を捨ててしまったというのです。

 年を重ねるといろいろなことを忘れやすくなると言われていますが、いかがでしょうか。眼鏡がない、鍵がない、財布がない…後で見つかると「なーんだ」と言うことで笑ってしまうのですが、笑えないものもあります。その一つは、恩を忘れるということです。自分ひとりで大人になり、自分ひとりでやり遂げたかのように思い上がってしまうのです。

 「…主の良くしてくださったことを何一つ忘れるな。」詩篇103篇2節


ひとりの預言者によって

2015年12月15日 | ホセア書

ホセア書 12章

 晴天のきのう、「さあ外に出よう!」と近くの公園へ。昼下がりでしたが、同じように考えた人たちでしょうか、たくさんの人が公園を歩き、走り、犬を散歩に連れていました。わずかに照る冬の太陽を満喫しようと、ベンチに座っている人たちも…。

 赤ちゃんから大切に育てる親のように、神はイスラエルをお育てになったというのは、きのう読んだ11章に記されていました。本章では、イスラエルの父祖であるヤコブが兄を押しのけ、神と争ったけれども、神は彼にお会いになり語りかけ、守ってくださったのだという出来事を思い起こさせています。けれどもイスラエル(エフライム)は、自分は何にも悪いことをしていないし、繁栄も自分の手で勝ち取ったものなので、だれにも文句は言わせないと言っています。

 自分ひとりでがんばった、だれの世話にもなっていないと思うかもしれないけれども、じつは、わたしがあなたとともにいて、エジプトから連れ昇らせ、約束の地に住むようにされたのだよ、とお語りになっているのです。

 「ひとりの預言者」ということばに目を留めました。13節に登場するのは、モーセでありサムエルでしょうか。そして、今ホセアの時代にはホセアという預言者によって彼らに語っておられるのです。そして今は、御子イエスによって神は時代に語っておられます。

 キリスト者たちは、今に神がお遣わしになった「ひとりの預言者」なのではないのでしょうか。


あわれみで胸が熱く

2015年12月14日 | ホセア書

ホセア書 11章

 

 きのうは日本語教会のクリスマス祝会がもたれました。大勢の方とともにイエスさまのご降誕を祝いました。参加していたお子さんの一人が「さっき来たニコラウス(サンタクロース)はどこに行ったの?」と探していたそうです。

 11章を読みながら「親の心子知らず」ということばを口ずさんでいました。親が赤ちゃんを育てるように、イスラエルを育ててこられた主の「親心」がいろいろなことばを通して伝わってきます。

 いわゆる自立期の子どもは、親がどんなに苦労して育てたのかを知るよしもなく、自分一人で育ってきたような態度をとることがあります。子どもはやがて親の手を離れていくのです。

 それではイスラエルの自立とはどのようなことなのかを考えてみますと、彼らが主なる神を捨てて他の神々のもとに行ってしまうことではありません。あるいは、神になんて頼らない自分だけでやっていくということでもありません。神の民の自立とは、実は神への絶対的な信頼なのだと思います。

 他の人や物に頼らずに、ひたすらに神に頼ることこそ、人間のあるべき自立の姿ではないだろうか、と考えます。

 わたしのところに戻ってくるようにと、あわれみで胸が熱くなるほど待っておられる主なる神の姿から、わが子の帰りを今か今かと待つ放蕩息子の父親を思いました。


北でもなく南でもなく…

2015年12月12日 | ホセア書

ホセア書 9章

 時折、スーパーの店先でケーキを買い求めます。それを分け合って食べるのですが、スーパーの店先だといって侮るなかれ。美味しいのです! 中心街のおしゃれなカフェで食べたケーキよりもずっと美味しいと感じます。値段も手頃。日替わりでいろいろなケーキが並びます。

 北王国イスラエルへの神のさばきの宣告がこの章でも続きます。

 目に留まったのは、「彼らは主の地にとどまらず」ということば。きのうも書いたように、国の存続を図るために、政治的な指導者たちは情勢を分析して、エジプトに、いやアッシリヤにと、頼るべき相手を捜し求めて、北へ南へと行き来しています。

 何事かが起こってさあ一大事! というときに、頼るべきものを持たないのは不安でたまりません。今で言うなら、警察や消防などでしょうか。昔ラジオのコマーシャルの中に「まさかのための○○火災」というコピーがありました。保険は「まさか」の時のためです。

 イスラエルにとっては、まさかの時もそうでない時も、頼るべき相手は北でも南でもなく、天におられ、また彼らとともにいると約束してくださった主です。ところが彼らは、文字通り北へ南へと頼るべき相手を捜し求めるのです。

 本章では、ご自分の民がやれアッシリヤだエジプトだと右往左往しているのを悲しみ、かつ身を乗り出して、北でも南でもなくわたしのところに来るようにと愛をもって招いておられる主のお姿が印象的です。


ひとりぼっちの野ろば

2015年12月11日 | ホセア書

ホセア書 8章

 きのう、「愚かで思慮のない鳩のよう」ということばについて書きましたら、その後あるラジオの放送で鳩の目の識別能力の高さを医療に用いようとする実験が行われて、実用化されそうだと報じられていました。神がお造りになったもののなかには、まだまだ私たちが気づかない優れた能力、知恵がひそんでいるのですね。

 8章も、神が北王国イスラエルを罪ゆえに厳しくおさばきになる様子が描かれます。偶像を持つのも、他国に頼るのも、本来頼るべき神から離れてしまったゆえのこと。政治の力関係で考えれば、国が生き残り繁栄するためには、どの国と組むのが良いのかという判断になるのです。

 イスラエルの場合は、アッシリヤに頼ろうとして、「愛の贈り物」をしました。ところが主は、そのような彼らの姿を「だれにも喜ばれない器」、「ひとりぼっちの野ろば」だとたとえます。

 器は何かの用のために作られます。美味しいごちそうを飾る器もあれば、花を生ける器もあります。中には掃除のぞうきんをすすぐための器もあります。ところがここで主は、イスラエルをだれにも喜ばれない器になぞらえておられます。周辺のどこにも受け入れられないような存在だというのでしょうか。

 「ひとりぼっちの野ろば」も悲しいたとえです。仲間に入れてとすり寄っても、気がついてみたらひとりぼっちというような雰囲気が伝わります。神に信頼すべくあるイスラエルが、神から離れるのは致命的なことだということに気づかされます。


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