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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

それは主のもの

2023年10月02日 | 詩篇

詩篇 24篇

 日曜日は、お借りしている教会と合同の収穫感謝礼拝。礼拝後には、それぞれが持ち寄った食べ物をいただきました。この日の楽しみの一つはリンゴ絞り。コンテナ二つ分のリンゴを、子どもたちが器械の中に投げ込むと、リンゴが粉々に。それをリンゴ搾り器で絞ると美味しいリンゴジュース(いわゆる生搾り)のでき上がり。でも、気がついてみたら私は飲むことができませんでした。来年のお楽しみにとっておきましょう。

 詩篇24篇は、後半の7節以降がメシアについての預言としてよく知られ、その部分に目が行ってしまうのですが、前半ではどのようなことが歌われているのでしょうか。

 神の前で人間はどうあるかということです。初めのことばが目に留まります。「それは主のもの」ということばです。なぜか、それは主が私たちが住まわせてもらっている地の基を据えられた方だからです。「それは主のもの」というこの一言を忘れないように、そうしなければ人間は欲望のかたまりのようになります。

 3−6節には、誰が主の前に立つことができるのかという問いかけ、それについての答えが明らかにされます。「これぞヤコブの一族」とほんとうの意味で胸を張って言えるのは、一人もいないということではないかと、ここを読んで思いました。

 しかし、私たちに希望がないわけではありません。それは自分自身によるものではないということが、7節以降で明らかになります。「栄光の王」とはこの詩篇の作者が待ち望んでいたお方。イスラエルの王であったダビデが「栄光の王」を待ち望んでいたのです。「それは主のもの」ということばの意味を知る者だけがいいうる希望ではないかと考えました。

 問われます。何を、誰を待ち望んでいるのだろうかと……。


見捨てないでください

2023年09月30日 | 詩篇

詩篇 22篇

 トルコ旅の実質四日目の金曜日は、コロサイ、ラオディキア、そしてエペソを訪ねました。同労の方が「コロサイは見つけにくい」と言っておられたので懸念していましたが、道路標識に表示されていましたので、無事到着。ほとんど発掘などされていない丘の上に……。そこで、コロサイ人への手紙1章を読むことができたのは、大きな喜びでした。

 詩篇22篇は、メシアであるイエスが十字架につけられることによって実現する預言です。

 1節は、イエスが十字架上で話された七つのことばの一つです。神の御子イエスが神に見捨てられる、つまり神が十字架につけられたご自分の御子を見捨てるなどありえません。しかしこの時父なる神は御子を助けることなく、見捨てられました。しかし、それは私たちが神に見捨てられていないということを意味しています。

 8節の「主に身を任せよ。助け出してもらえばよい。主に救い出してもらえ。彼のお気に入りなのだから」も、イエスの十字架において成就しました。マタイの福音書27章43節に「彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、今、救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから」とあります。

 18節の「彼らは私の衣服を分け合い 私の衣をくじ引きにします」は、マタイの福音書27章35節の「彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた」に通じます。

 見捨てられることがどんなに辛いかは、味わった人でなければ分かりません。御父が御子を見捨てることなどありえないということが起こったのです。神に見捨てられるのがどれほどのことなのかを、イエス自らが経験してくださった……。それは、私たちが神によって見捨てられることはないということの希望なのだと考えました。


主に信頼しているので

2023年08月04日 | 詩篇

詩篇 21篇

 年に一度の大きな集まり。受け付けにいますと、1年ぶりにお目にかかる方がたくさん。私は、ティーンズのグループに混ぜてもらいました。夕食に出されたドイツのキャベツの酢漬け「ザウアークラウト」を用いた料理も美味しくいただ、もう一つのご馳走の食卓での会話もとても良い味でした。

 20篇に続いて本篇にも、王が登場します。「主よ あなたの御力を王は喜びます」「王は 主に信頼しているので」などの言葉は、国においても、共同体においても、教会においてもあるべき指導者の姿について考えさせます。

 王の喜びは何か、それは自分の力で何かに勝利したとか、自分のために富を蓄えたということではありません。神に信頼する者に神が授けてくださった御力、人の能力をはるかに超えた大きな力を目の当たりにした時の喜びなのだと知らされます。

 指導者はその権威や能力ゆえに、知らず知らずのうちに自分の力に頼るようになります。勝利の体験を積み重ねるなら余計にそのような危機に遭遇するのです。「もう何度もうまく言っているから」「十分な力があるから」などとおごっているとき、そのような慢心が砕かれてしまうようなことが起こるのです。

 改めて本篇を読み直してみると、「あなたが」「あなたの」が多いことに気づきます。天地を造られた神を「あなた」として呼び求めることのできる幸いを、改めてこの詩篇から味わうことができます。


何に、誰に頼るか

2023年08月03日 | 詩篇

詩篇 20篇

 本日から出かけるので、昨日夕方ちょっと買い物をしガソリンを入れようとして着いてみると、入っているはずの財布がありません。同行してくれた小さなお客様に10ユーロほど借りて買い物は終了。ガソリンは出かける日に入れることにしました。10ユーロは、帰宅してすぐに返しました。

 詩篇20篇を読んで、「高さ」を心に留めました。「あなたを高く上げますように」「主が聖所からあなたに助けを送り」「旗を高く掲げます」「聖なる天から その者に答えてくださる」「しかし私たちは まっすぐに立ち上がった」など。

 この地に生きる者たち誰もが遭遇する苦難。しかし、神を自分の主として信頼する者には、高い所におられる主が助けを送り、祈りに答え、そして立ち上がらせてくださるとの約束を得ており、その約束は決して裏切られないのです。

 昔も今も戦車や馬を力として頼る者は絶えることがありません。それらに信頼するほうが、見えない神に信頼するよりも頼りになると錯覚するようなことが次々に起こります。いいやそうではない! と自分の心の中に湧いてくるそのような思いを断ち切って、神のことばの約束にとどまり続け、低い所でのたうち回っている者への高い所からの間違いのない助けに期待する日々をすごすこと、これが信仰者の姿だと、ここから教えられます。

 「みことばの光」が説くように、9節の「主よ 王をお救いください」を心に留めます。


主の教えは完全

2023年06月30日 | 詩篇

詩篇 19篇

 6月は今日が最後の日。「暑かった」というのが印象でした。その中でいくつかの小旅行をしました。

 詩篇19篇には特別な思いでがあります。ある年の夏、長野県の松原湖でのアウトキャンプ。キャンプ期間中にみんながこの詩篇を覚えるという課題が出されたのです。忘れている部分もありますが、その時に必至になって覚えたことゆえに、今でも口ずさむことができます。そのキャンプ場での夜、夏は空気が少しよどむので冬ほどくっきりと眺めることはできないのですが、キャンプ場の原っぱで仰向けになって星空を眺めたのも、とても良い思い出です。

 神が創造された天を見上げ、ダビデはそれらが神の栄光を現していると歌いはじめます。そして、物言わぬそれらの被造物を通してご自分がどのような方なのかを明らかにすると続けます。

 日本でも太陽を神々しいものとしてあがめたり拝んだりすることがあります。しかし4ー6節でダビデは、神が太陽をご自分の意のままにしておられる、言い換えると太陽は神に従って動いているのだと歌うのです。

 7節以降が、本篇のテーマです。ダビデは、主のおしえが完全であると歌います。ここでは、神のことばが「おしえ」、「証し」、「戒め」、「仰せ」、「さばき」と多様なことばで表されます。最長の詩篇119篇に通じますね。

 神のことばの素晴らしさに圧倒されてダビデは、自分の心を探られます。これは詩篇139篇に通じます。神のことばに心を照らされ、探られるのがなんとありがたいことなのかと、声を出して読みつつ神に感謝しました。


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