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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

神 その道は完全

2023年06月29日 | 詩篇

詩篇 18篇30−50節

 ウクライナで牧師をしている方からのニュースレターが届きました。その中に「教会は『日常』を守り続ける」ということばがありました。

18篇は、サムエル記第二22章と同じ内容です。サムエル記はサムエル〜サウル〜ダビデとイスラエルが王を持つようになる過程を描いていますが、22章には自分の生涯を振り返って神を賛美し、神に感謝するダビデの思いが込められています。

 30節の「神 その道は完全。主のことばは純粋。主は すべて主に身を避ける者の盾」ということばが心に留まります。

 「神 その道は完全」ということばからは、人が人生でたどる道の不確かさ、危うさのようなものが浮かび上がってきます。ダビデのようにその不確かさや危うさは、サウルやわが子アブサロムによってもたらされました。敵地に逃れたために彼はいのちの危険を感じました。しかし、そのような危うさはダビデ自身が蒔くことによっても起こります。

 「右にも左にもそれずに、ただひたすらに神が望まれた道を歩き通した」と誇れるほどの自分ではありません。信仰者を支えるのは神であるということをこのことばは伝えます。

 「主のことばは純粋」ということばからは、人間のことばがそうではないと言われているようです。ダビデも人のことばによってもてあそばれるようなことを何度も経験しました。たくさんのことばが私たちの耳に飛び込んでくる今、そして、次々とことばが新しいものに取って代わられる今でも、変わることのない神のことばがあるのです。

 そしてダビデは、人生を貫いて主こそ自分の唯一の避け所、盾なのだと言い切っています。自分の功績に満足しているのではない姿に、多くを学びます。


私より強かったから

2023年06月28日 | 詩篇

詩篇 18篇1−29節

 日本から出張に来られた方と空港で会いました。日曜日に来独し火曜日に帰国するという「弾丸スケジュール」とのこと。次の機会には観光の時間もぜひ、とお伝えました。

 詩篇には味わい深いことばがたくさんありますが、背景がはっきりしないので難しいという感想を持つ人もいます。しかし、18篇はタイトルにこの詩篇がどのような時のどのような出来事と関わりがあるのかが明らかにされています。

 「彼は言った」ということばから、本篇は始まります。あとに「わが力なる主よ。私は……」とありますので、「彼」とは「私」つまりダビデだということが分かります。彼がどのような窮地に追い込まれていたのかは4−5節に明らかにされているので、2−3節は彼が大きな苦しみの中から主によって助け出されたことについてのまとめのように読むことができます。

 17節の「彼らが私よりも強かったからです」ということばに目が留まります。人は自分が対応できることについては、自分の力で行い、自分の力でできたと思います。しかし、私たちはそのようなことばかりに遭遇するのではありません。自分よりもはるかに強い存在を相手にすることも起こります。そんな時には自分の小ささ、無力をいやというほど知らされます。

 しかし、神を信じる者は、自分が無力であると知らされ、それで終わるのではないのだ、だからこそ、主が私を救い出されるのだという、よく考えるなら当たり前のことに気づかされることばです。クリスチャンがしばしば用いる「救い」も、自分ではできないこと、無力であることをいやというほど知らされたものに神が与えてくださるものなのだと、気づかされます。


満ち足りる

2023年06月27日 | 詩篇

詩篇 17篇

 日曜日の夕方、7人でインド料理レストランへ行きました。久しぶりにレストランのカレーをいただきました。ある方が注文した激辛カレーを味見させてもらいましたが、辛い、でもうまい、でした。

 ヨシュア記を読み終えて、今日は詩篇を開いています。イスラエルの王となったダビデの祈りです。

 最初の呼びかけで目に留まったのは「正しい」ということば。彼は自分の正しい訴えを聞いてくださるように、自分の主である神に訴えています。そして、神が自分に正しいさばきをしてくださるようにと祈っています。ダビデは自分に自信があり、『完璧な私」であることを主に訴えているのではありません。自分が主の前に、思いにおいてもことばにおいても、そして行いにおいても、正しいものでありたいと願っていることが伝わってきます。

 誰の前に自分がいるのかということを人は考えます。ダビデの初めの祈りは神の前の自分を自覚してのものです。

 本篇の終わりの部分からは、『満たす」「満ち足りる」ということを覚えました。この世の人々は腹を満たします。神が蓄えられたことをも知らずに、彼らは神への感謝もなく腹を満たすことに満足します。

 ダビデは神の御顔を仰ぎ、御姿に満ち足りると告白しています。こう書きながら、やせ我慢をしているのではないかという思いもちらっと抱きましたが、そうではないのですね。『目覚めるとき」というのは翌朝ということでしょうか、もしかしたら、いつか神の御前に立つ時のことを言っているのかもしれません。

 神に信頼する者は、失望したままで終わることはないのです。御顔を仰ぎ見る希望のゆえに……。


私の幸い

2023年04月11日 | 詩篇

詩篇 16篇

 窓を開けても、「寒い!」という空気ではなくなりました。昨日は「イースター月曜日」でお休み。月曜日からほぼ一か月、日本に戻ります。ブログが更新されるころはまだ機上だと思います。

 16篇は、ダビデと神との間がどのようなものだったのかを伝えています。

 ダビデにとって神は、「あなたこそ 私の主」であり、「私の幸いは あなたのほかにはありません」といいうる方でした。人は「幸い」をいつも追い求めています。小さな幸せを見つけて歩んでいるのだと思います。

 今年の当地のイースター休みはいつもよりも長い三週間。コロナ規制もほぼ無くなった今たくさんの人たちが日本への一時帰国をしています。私たちも……。昨日のイースター礼拝の後、日本に戻ったら何がしたいかという話題にありました。「コンビニのお弁当」「牛丼」「ラーメン」……出てくるのは食べ物のことばかり。互いに苦笑いをしていました。

 ここから思うのは、私たちの幸いは、食欲や物欲などを満たすことで得られるのではなくて、良い関係性が互いに保たれていることから来るのだということです。人と人との関係が歪んでいるのでは、どんなに美しい景色も美味しい料理も十分に楽しむことはできません。

 そして、人は自分の存在の根源である方との関係が保たれて初めて「幸い」だということができるのだと、ここから教えられます。この詩篇から、主が私にどんなに素晴らしいことをしておられるのか、私は主にどのようであり、何をするのかを静まって考えてみたい、と思いました。


全き者

2023年04月10日 | 詩篇

詩篇 15篇

 イースターの礼拝後。ブラジルに旅立つ方の歓送の時を持ちました。礼拝ではその方が復活の主イエスにどのようにしてであったのかについて、話をしてくださいました。三年半の当地での滞在で詳しく聞くことのなかったこと。飾ることなくありのままの自分を、神への信頼の中で話してくれました。

 詩篇15篇は比較的短い詩ですが、ここにあるべき人の姿がまとめられています。

 「主よ だれが あなたの幕屋に宿るのでしょうか……」という問いかけで始まるのですが、よく考えてみると、その後に並ぶあり方にぴったりと合う人はだれもいないのです。いや、たった一人を除いては……。

 もしかしたら、以前も同じことを書いているかもしれませんが、この詩篇は昔、土曜日の夜に放映されていた「大草原の小さな家」というドラマの中で、牧師さんが読んでいたな、という記憶があります。その回は、オルソン夫人と娘が主人公のローラたちに意地悪をするという筋書きだったと思います。そのことばを聞きながら、主人公がにこっとするというエンディングが印象に残っています。 

 あの時、私を初め多くの視聴者は「ローラ良かったね、意地悪な人が懲らしめられて」と思ったことでしょう。しかし、主人公は決してここで歌われているような「全き者」ではありません。私たちも「全き者」ということばに「そのとおり!私のことだ」と胸を張ることはできません。

 「だれが……」という問いかけに合致するのは、人としてこの世界に来られ、罪人の代わりに罪の贖いとなり、復活して生きているイエスお一人です。

 本篇はこの事実に私たちの目を向けさせます。


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