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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

いつくしみは大きい

2023年12月27日 | 詩篇

詩篇 31篇

 クリスマス祝日の二日目、周囲は静かですが久しぶりに公園を歩くと、たくさんの人が歩いていました。このところずっと暖かな日々が続いています。久しぶりの美しい夕景でした。

 詩篇31篇でのダビデの主への訴えは次のようです。「決して恥を見ないようにしてください」「助け出してください」「救い出してください」「救ってください」「導き 伴ってください」「あわれんでください」「救い出してください」「御顔を…照り輝かせてください」「お救いください」「恥を見ないようにしてください」「悪しき者どもを辱めてください」「偽りの唇を封じてください」。

 彼には彼を唇で陥れようとする悪しき者が迫っています。救いは急を要します。しかし、ダビデは主の前に全き者として歩いていたのではありません。「あわれんでください」という願いがそのことを明らかにしています。10節には彼自身の咎が、力を弱めてしまっていると告白しています。

 さらに11節では、敵にそしられ、隣人には恐れられ、人々からは避けられると言っています。12節には、自分が死人のように「人の心から忘れられ」ているとまで告白しています。八方塞がり、孤独の中に投げ込まれていたのです。しかしそれでも、ダビデは主に祈ります。望みが天にあることを確信するゆえです。

 15節の「私の時は御手の中にあります」ということばに目が留まります。どのような時にも自分が主の御手の中にいるという事実が、彼を祈りに向かわせます。

 主のいつくしみは大きいのです。


恩寵ゆえに立つ

2023年12月26日 | 詩篇

詩篇 30篇

 クリスマスの月曜日、私たちは近くの川沿いを歩きました。水量が増えていて、この州に増水の注意報が出ているのがなるほどと思いました。長い間工事をしていた橋も完成し、初めて渡りました。もう自動車が通っても揺れることはありません。

 年末は詩篇を味わいます。本日は30篇。

 「主よ 私はあなたをあがめます」から本篇は始まります。そのわけは、敵が喜ばないように主が彼を引き上げてくださったからだと、ダビデは続けます。ダビデには敵がいました。敵は時に剣を手に迫ってきます。しかしある時には、神との関係にきしみのようなものをもたらすダビデを責めるという方法をとります。

 ですから、ダビデにとって何よりも大切なのは敵をどのように攻略するかということではありません。神との結びつきをあるべきものにすることです。5節の「御怒りは束の間、いのちは恩寵のうちにある」とは、彼が神の御怒りを受けるような状態だったのかもしれないと想像させます。7節に「あなたが御顔を隠されると 私はおじ惑いました」とあるのです。

 しかし、神の怒りや懲らしめはご自分の民が再び立ち上がるための愛に基づくもの。彼は自分の罪を告白し、神のご恩寵ゆえに、あわれみゆえに立ち上がることができました。

 教会の会報に掲載された一人の方の文章を読み、編集させていただきながら、あわれみ豊かな神をあがめました。


聞いてください

2023年11月03日 | 詩篇

詩篇 28篇

 最近は、日本の祝日は土日月との関わりで移動することが多いのですが、11月3日は変わらずに「文化の日」です。日本ではお休みの一日をどのようにお過ごしでしょうか。日本国憲法が公布された日を記念して定められたとのことですが、改名の動きもあるとの説明もありました。

 詩篇28篇は、語ることと聞くこととを表す言葉が目につきます。

 「呼び求める」「耳を閉ざさないで」「願いの声を聞いてください」「叫び求める」「私の願いの声」「歌をもって主に感謝」などがそれです。この詩篇にもダビデの敵が登場します。そして、この敵は手強いことが3節の「彼らは隣人と平和を語りながら その心には悪がある…」という言葉から伝わってきます。

 言葉に偽りがある人は厄介です。心に思うことと口に表すこととが違いますので、真(ま)に受けると大変なことになります。主を恐れることがなければ、人は自分を正当化するためにあらゆることを思い、口にします。できるだけ自分の賛同者を増やすために上手に言葉を用います。、苦々しく思っている相手には「滑らかな言葉」を用いることさえします。相手を陥れるためです。

 そんな事情に投げ込まれたならどんなに大変でしょうか。しかし、ダビデは抜け道をここで明らかにします。それは「主を呼び求めること」です。

 9節は自分のための祈りではなくて、とりなしです。彼は自分が神に叫び求めて助けにあずかった恵みを、一人のものにしません。同じような辛さを経験している民のために祈ります。教会の交わりがこのようなものでありたいと、さまざまな日々の出来事の中から教えられます。


一つのこと

2023年11月02日 | 詩篇

詩篇 27篇

 いつも快く教会の案内を掲示してくださる食材店の店主から、カップ麺をいただきました。その日は折悪くバスと電車と徒歩で訪ねましたので、すでに購入したものでリュックサックがいっぱい。しかし、折り畳める袋に入れてみるとぴったりと収まりました。

 27篇のはじめには、恐れるということばが並びます。この時ダビデは、そのようなところにいなければならなかったのです。それにしても「私の肉を食らおうと ……襲いかかった」とはどのような場面なのでしょうか。しかし、そのような時に崩れ落ちたのはダビデではありませんでした。

 その鍵は4節以降にあります。「一つのことを私は主に願った」ということばに目が留まります。主に願うことは、あのことこのことと数え切れないほどあるのではなく、たった一つ。それは「主の家に住むこと」なのです。あれもください、これもかなえてくださいというのではなくて、主がおられるところにいさせてくださいというのが、「一つのこと」なのであり、それはダビデに限りません。

 ダビデにとってそれは宮であり幕屋でした。そこが彼を苦しみの日に身を隠す場所だったのです。キリスト者にとってそこはどこなのでしょうか。教会であり礼拝だと言えるならば幸いかもしれません。しかしそこは、自分が今いるところ、山のような問題に直面しているところであってもよいのです。ああ、ここには主がおられると確信できるところ、それが私たちにとっての「主の家」ではないか、とここから考えました。

 13節には問いかけがあります。信じているからこそ、次の呼びかけが可能なのです。「待ち望め 主を 雄々しくあれ。心を強くせよ。待ち望め 主を」と……。


いつくしみのゆえに

2023年10月03日 | 詩篇

詩篇 25篇

 今回のトルコ旅。聖書に登場するさまざまな地を訪ねました。そのすべてが遺跡であり、世界遺産として多くの人が訪れる場所もあれば、私たちだけという地もありました。おおよそ2000年前、ここにヨハネが住んだ、パウロが大騒動に巻き込まれた、ルカがパウロと出会った、ユテコが落ちた、などという聖書に著されている地に立つ喜びを味わうことができました。

 ダビデによる詩篇25篇が、いつごろどのような背景の中で歌われたのかははっきりしません。「私の若いころの罪や背きを 思い出さないでください」と7節にありますので、ダビデがこれまでの歩みを回顧したものだと考えられます。同時に、この時ダビデには敵がいたことも1節や19節から分かります。

 しかし、ダビデはここで正しい歩みをしている自分を神が救ってくださるようにと願い求めているというようでもありません。彼は自分を「罪人」「貧しい者」としています。また、「あなたの御名のゆえに 私の咎をお赦しください。それは大きいのです」とも祈ります。さらに18節でも「私のすべての罪を赦してください」とあります。

 若い時の罪を、そして今の大きな咎を、すべての罪を赦してくださいと祈るダビデのように、神の子どもとされた私たちはいくつになっても赦しを約束しておられる神の前に罪を告白する者なのです。思いにおいて、ことばにおいて、また行動において神を悲しませるような者、しかし、そのような者が「罪をお赦しください」と願い求めるならば神は赦してくださるという、大きな恵みの中に置いてもらっているということを、ここから確認することができます。

 最後のことば。大きな罪を赦していただいた王ダビデはイスラエルのためにとりなす者でもあありました。

*写真「エペソの夕景」


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