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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

もうしばらく

2024年01月02日 | 詩篇

詩篇 37篇1−22節

 昨日の能登半島を中心とした大きな地震での被害の拡大が懸念されます。新しい年を迎え、それぞれに希望や期待をおぼえる中にあっただけに、落胆しておられる方も少なくないかと思います。恐れや不安の中にある方々を神が支えてくださるよう祈っています。

 きょうは詩篇37篇の前半を開いています。「みことばの光」は「地を受け継ぐ」ということばに目を留めています。私たちはイエスを救い主、主であると信じてもなその地に置かれます。イエスを信じたからといってすぐに天に移されるということはありません。ですから戦いがあるのです。

 本篇は「悪を行う者」に始まり、「悪しき者」ということばが多く用いられています。地には「悪しき者」がいて、主を恐れる者に激しく挑んでくるのです。戦いに勝つ鍵は「主に信頼すること」。これはダビデの時代も、イエスがおられた頃も、そして今も変わることがありません。

 本篇前半から「時」を思いました。「主が……心の願いをかなえてくださる」のも「成し遂げてくださる」のも主が決められた時があります。それゆえ「耐え忍んで主を待つ」ことができるのです。10節には「もうしばらくで」ということばがあります。それがどのぐらいの期間なのか、私たちが期待する「もうしばらく」と主が定めておられる「もうしばらく」は同じではありません。それが信仰者の悩みであるとともに、希望でもあるとここを読んで思いました。

 年が変わるということは、主がお定めになっている時を意識するきっかけでもあります。「もうしばらく」と何を待っているのでしょうか。


あなたの恵みは天にある

2024年01月01日 | 詩篇

詩篇 36篇

 ブログをご愛読の皆様、新年明けましておめでとうございます。今年もよろしくお願いいたします。

 これを書いているのはまだ、旧年の夕方で日曜日の礼拝を終えて帰宅したばかりです。当地では花火が「バーン」「バーン」と鳴り響く大晦日なのですが、贅沢をいえば、花火がもっと美しかったらなぁと、独り言を言っています。

 「みことばの光」で2024年最初に開くのは詩篇36篇です。そしてその最初に読むのは「わたしの心の奥にまで 悪しき者の背きのことばが届く」です。年の初めなのだから、「わたしの心の奥にまで 主のいのちのことばが届く」とスタートしたいのに、と思うかもしれません。

 本篇を読んで「高さ」ということばが浮かびました。地では悪しき者が人を陥れようとして悪を企てています。ダビデはそれに巻き込まれているのです。2節は難解です。日本語聖書でも同じ意味のものはありません。神を恐れない者が行き着く先を描いているのかもしれません。罪の闇は深いのです。

 引きずり込まれそうな悪の現実の中で、ダビデは文字どおり主を見上げます。5節はさわやかに響くことばであり、このように書いて(打って)いる自分も、思い切って天を見上げて神を賛美したいと思いました。さあ、目を上に上げて「あなたの恵みは天にあり あなたの真実は雲にまで及びます……」と。

 そしてダビデは願います。「注いでください。あなたの恵みを……」と。年の初めに天を仰ぎ「あなたの恵みは天にある」と声を出して神をたたえます。


あらゆるときに

2023年12月30日 | 詩篇

詩篇 34篇

 クリスマス礼拝後、子どもたちが朗読劇をしてくださいましたが、そのビデオがほぼ完成しました。毎日映像制作をしているわけではないので、忘れてしまったこともたくさんありましたが、徐々にコツをつかむようになりました。毎日映像を配信している人たちの大変さをほんの少しだけ味わいました。

 34篇のはじめには、追い詰められたダビデが頭がおかしくなったかのように振る舞った時という背景が明らかにされています。サムエル記第一21章10−15節に記されています。サウルにいのちを狙われていたダビデは、自国にいたのでは危ないとして、敵であったガテの王のもとに身を寄せます。それは、いのちを永らえるための恥も外聞もない行動でした。

 そのような事情を踏まえて本篇を読み進め、8節のことばに目が留まりました。「味わい 見つめよ。主がいつくしみ深い方であることを」とあります。ダビデがイスラエルの勇士としてのプライドを脇に置いて、ぶざまにも敵地に逃れるという経験を通して、彼は主がいつくしみ深い方であることを知ったのです。

 私たちは、自分のかたちのようなものが崩れないようにと注意しながら生活しています。そこにも主の恵みは確かにあります。しかし、自分で自分が保つことができずに、あってはならないようなところに追いやられたり自分で追いやったりすることによってしか、味わうことのできない主のいつくしみがあります。

 そのようなことを考えますと、1節の「私はあらゆるときに 主をほめたたえる」という最初の賛美の中にある、「あらゆるときに」ということばの意味がより深まるのではないでしょうか。


目を注ぐ

2023年12月29日 | 詩篇

詩篇 33篇

 「みことばの光」に原稿を執筆してくださった師が召天されたとの知らせが届きました。数年前に詩篇全篇を一冊にするために執筆をお願いした時、「私にはもう時が残されていないから」とまとめて原稿をお送りいただいたことを、思い出しています。

 「主を喜び歌え」との呼びかけで始まる本篇。最初の段落には、主のことばがまっすぐであること、主のことばによって天と地が造られたことが歌われています。さらに9節には、「主が仰せられると そのようになり 主が命じられると それは立つ」とあります。これを書く少し前に、クリスマスに上演された子どもたちによる朗読劇をビデオに仕上げました。創世記1−3章をテーマにした作品です。何度も映像を見ているうちに、天地を創造された神のことばの力、真実を子どもたちの朗読を通して覚える時となりました。

 13節と18節に、「主の目が注がれる」ということばが繰り返されます。13節ではすべての者に主は目を注がれるとあり、18節では主を恐れる者に注がれるとあります。ことばによってすべてのものを、すべての人を造られた神は、造られた者たちの主だということが、13−15節から伝わります。15節の「主は 一人ひとりの心を形作り」ということばに目が留まります。人は自分の力で感じ、考え、何かを行う者だと錯覚しているのですが、そうではありません。

 18節からは、ご自分の民に目を注ぎ、顧み、助けを与えられる主の恵みが伝わってきます。信仰者であっても時に、誰も自分を顧みることはないと、孤独にさいなまされる時があります。しかしそんな時こそ、注がれる主の目を信じて歩みたいものです。


喜びが湧くところ

2023年12月28日 | 詩篇

詩篇 32篇

 配送の不在通知を見落としていたために、ずっと配達所に置いてもらったままになっていた贈り物を無事に受け取りました。行方不明にならずにすみました。ありがとうございました!

 32篇は1篇の出だしのように始まります。「幸いなことよ」と訳される語は、旧約聖書では31回用いられているのですが、そのうち21回は詩篇です。

 ここでは、背きを赦され罪を覆われた人の幸いを歌います。ここで自分を調べ、赦すのは主です。はじまりの部分を繰り返し読むうちに、これは大変なことだと思うようになりました。正しく聖い神が自分の咎を認めないというのはありえないからです。努力や才能によってではなくて、自分の罪を神の前で言い表わすことだけがそのためのたった一つの道。

 4節に目が留まります。「昼も夜も 御手が私のうえに重くのしかかり」ということばです。それはダビデが、神とのつながりを何よりも大切にしていたから、神との正しい、あるべき関係でありたいと願っていたからではないでしょうか。神がどなたなのかを知る者が覚える重さだと思うのです。

 自分の身を守るため、弱さを見せないために、誰かを攻撃して自分がどれだけ正しいか、相手がどれだけ愚かで問題に満ちているのかを暴こうとすることがあります。しかし、神の前に自らの罪を、そして醜さや弱さをさらけ出せるのは、じつは幸いなのだと、本篇を読んで考えました。

 5節にも目が留まります。背きを主に告白するなら、主は…赦してくださったと言います。ここを、十字架にかかられた御子イエスのお姿を見るようにして読みました。ここから喜び、楽しみが湧いてきます。


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