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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

しかし 主よ

2024年03月01日 | 詩篇

詩篇 41篇

 今日から3月。「みことばの光」PDF版を開いてみましたら、表紙の次のページ(日々聖書を読むときのために)が白紙であることが判明。配信を担当している方に修正後のものを送り、読者の皆様に再配信していただくようお願いいたしました。確認不足をおわびいたします。間もなく修正後のPDF版が届けられますので、少しの間お待ちいただけますか。

 病に臥(ふ)すのを誰も望んではいません。本人も家族も親しい人々も、一日も早く快復することを願い、神に祈ります。しかし本篇には、病に苦しむダビデに追い討ちをかけるようなことをする者、敵がいるとあります。

 1−3節と4節以降は、違う人のことばだと考えることもできます。1節の「弱っている者に心を配る人」とは病の床にいる人のことでしょうか。彼は普段から弱っている人を心にかけ、支えていました。しかし、彼自身も病に臥すのです。そのような彼を、主は助け出し、見守り、生かし、地上で幸せな者とされます。もっとも弱い時に、主はしっかりとその人を支えてくださるのです。

 4節以下の主語は「私」です。「私」は病に臥しています。敵はあからさまに「あいつはいつ死ぬのか」と悪口を言います。さらには、「あいつが病気なのは悪い者が取りついている。二度と起き上がれまい」と無責任な憶測を周囲に言い広めます。

 9節に目が留まります。これまで「私」の近くにいた者たちさえが裏切っているのです。追い討ちをかけるとはこのようなこと。

 「しかし 主よ」は、そんな「私」を支える転機となることばです。信仰者は誰もが、「しかし 主よ」との祈りを持っています。どんなに周囲に追い込まれていたとしても、「しかし 主よ」と祈る時、事は動きます。主は動かしてくださるのです。


抑えきれずに…

2024年02月29日 | 詩篇

詩篇 40篇

 水曜日午前の祈祷会はいわゆる「対面」で行われ、懐かしい方々といっしょに聖書を読み祈りました。そして水曜日夜の祈祷会は「オンライン」での開催。昨晩は大人が8名、子どもが6名が参加しました。大人も子どもも神に感謝することを一つ、祈ってほしいことを一つ挙げてから、互いのために祈ります。将来への希望に満ちた祈祷会です。

 この時ダビデは、すぐにでも神の助けを必要としていました。本篇は「私は切に 主を待ち望んだ」から始まります。事態は彼にとって緊迫していたのです。そして主は彼の祈りを聞いて即座に助けられたのです。さらに、彼を助けてくださった主は、ダビデの口に新しい歌を授けてくださったのです。

 ダビデは詩篇のうちのかなりの主への賛美を歌い上げているのですが、それは主が彼に新しい歌、ご自分への賛美を授けてくださったからです。「新しい」歌とは、いわゆる新曲、新しく唄う歌だけではなくて、日々新しくされた者が神をほめたたえることだと考えるならば、昔から歌われているものであったとしても、それは「新しい歌」なのだと、ここから考えました。

 9−10節に目を留めます。ダビデは、唇を押さえずに神の義を喜び知らせようとしています。39篇では沈黙を抑えきれずに神に願い求めたダビデが、そしてここでは、神への賛美を抑えきれずに神をほめたたえるダビデの姿があります。


あなたとともにいる旅人

2024年02月28日 | 詩篇

詩篇 39篇

 ほぼ10年ぶりに日帰り温泉を訪ねました。運営者が替わりましたが泉質は変わらず。平日でもあったので、入浴者は二人だけでした。

 口をしっかり閉じながら、ほっぺたがだんだんと膨らみ、ついに我慢できずに声を出してしまうような顔を思い浮かべながら本篇を読みました。

 1節を読んで、新約聖書ヤコブの手紙とのつながりを思いました。ヤコブの手紙3章2節に「私たちはみな、多くの点で過ちを犯すからです。もし、ことばで過ちを犯さない人がいたら、その人はからだ全体も制御できる完全な人です」とあります。

 ダビデも、ことばの罪の大きさを自覚していました。悪しき者の前で神がお望みにならないことばを口走ってしまうことを恐れていたのかもしれません。ですから彼は沈黙を続けたのです。けれども、黙っていればよいということでもありません。2節に「良いことにさえも沈黙した」とあります。

 興味深いのは、沈黙を破って誰に何を尋ねたかです。ダビデは自分の齢がどれだけかを知らせてほしいと神に願いました。自分のいのちのはかなさを知りながらも、いのちを与え保ち、そしてこの世から取り去られるお方に聴こうとしたのです。

 12節に「私は あなたとともにいる旅人」とあります。地上が神の民の終の住み処ではないということをここから改めて覚えます。戻るべき家があるからこその旅だと言われます。「あなたとともにいる旅人」として今日も歩みます。


主よ 私の救いよ

2024年02月27日 | 詩篇

詩篇 38篇

 風の強い月曜日。訪ねてくれた兄弟夫妻といろいろ話ができました。一ヶ月間の一時帰国もおよそ半分です。あっという間に終わりそうです。

 「みことばの光」では、しばらくマタイの福音書を読み進めてきましたが、2月の終わりの三日間は詩篇を味わいます。

 38篇の表題が「ダビデの賛歌」とあります。これほどまでダビデが神の激しい怒りに会う出来事といえば、ウリヤの妻バテ・シェバと道ならぬ関係を持ち、挙げ句の果てにウリヤを殺してしまったことを思います。

 ダビデの人生における最大の汚点だと言えるこの出来事は、サムエル記第二11−12章に記され、罪を悔い改めるダビデの祈りで知られているのは詩篇51篇です。本篇からは、罪を犯したダビデの孤独が伝わってきます。

 11節に目が留まります。罪のために神の憤りを身に受けるダビデのことを、愛する者、友、近親者は遠く離れて見ているだけなのです。犯した罪の結果はこのようにして自分自身が身に負わなければならないのですが、あまりにも孤独な姿がここには映し出されています。さらに、ダビデの敵たちはこの時とばかりに、彼を追いやろうと企ててさえいます。

 神の前に罪を犯したダビデは、神にあわれみを乞い願います。ここに、罪人のなすべき生き方があります。神に罪を犯した彼は、神を待ち望むのです。どんなに神を悲しませ、怒らせることをしても、ダビデは自分と神とを「私」と「あなた」と呼びます。

 神を悲しませ、怒らせるようなことをしたときこそ、「主よ 私の救いよ」と助けを願い求めるのだという、促しがここにあります。


未来があるか、ないか

2024年01月03日 | 詩篇

詩篇 37篇23−40節

 大地震・津波、そして航空機事故と、心が揺さぶられるような出来事が続く新年です。いつもならば、天候が多少悪くても日に一度は外歩きをしていたのですが、昨日は家に篭(こ)もっていました。悲しみの中にある方々に主の慰めがありますように。

 このような中で、詩篇37篇後半を開きます。

 年頭は、大きい小さいはあっても心に抱負を抱く時かもしれません。しかし「今年の抱負は……?」と尋ねられたとき、何と答えたらよいのでしょうか。年齢を重ねていく中で、夢を見る(就寝中のではなく)のは難しくなりつつあるという実感がありますし、続く惨事に心が沈む自分がいます。

 そのような中で開いた23節は、私の心を照らす小さな、しかし確かな灯(ともしび)でした。「主によって」私の歩みは確かにされるのであり、その確信を持つ者を主は喜ばれるのです。転ぶことがあっても決して致命傷にはならない、なぜならば主が私の腕を支えておられるから……。

 25節から、この詩が年老いたダビデによって歌われたものであることが分かり、いっそう親しみが湧いてきます。イエスを救い主と信じたことによって始まった人生を振り返るならば、確かにそのとおりであり、これから先の私たちの子孫たちの歩みも祝福されたものになるという希望が、ダビデの先には見えています。そして特に、ダビデのこのことばには重みがあるのです。ダビデの子孫としてこの世界に来られる主イエスのお姿を見えてくるからです。

 37−38節の未来ということばにも目が留まります。一方の歩みには未来が拓けもう一方の歩みには閉ざされている、そして鍵を握っているのは主お一人。だから「主を待ち望め。主の道を守れ」ということばが響いてきます。


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