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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

大いにあがめられる方

2024年03月07日 | 詩篇

詩篇 47篇

 水曜日、目覚めると雪。午前の祈り会をしている所には徒歩で向かったのですが、その頃には雨に変わっていました。今回の一時帰国では水曜日の祈り会に毎週加えていただき、ありがたかったです。

 詩篇47篇からは音が響いてきます。手をたたく音、大声の叫び、喜びの叫び、角笛、ほめ歌。神への賛美は、私たちが思い描き経験していることよりも多様なのではないかと、ここを読んで思いました。人は数えきれないほどのことばをメロディによって神をほめたたえてきました。そう考えると、2月に生まれたばかりの孫の泣き声も神への賛美のように聞こえてきます。

 さらに本篇に何度も繰り返されているのが「国々」ということば。神は民族や国を越えてすべての人々によってほめたたえられる方なのだという、至極当たり前のことに気づきます。

 この詩篇は46篇10節をさらに広げたものだとの解説もあります。「やめよ。知れ。わたしこそ神。わたしは国々の間であがめられ、地の上であがめられる」という神の宣言への応答が47篇だと考えることができます。もしかしたら、「神は私たちのもの」という概念に私たちは縛られてしまっているのではないだろうかと問われます。

 「神は大いにあがめられる方」なのです。


やめよ

2024年03月06日 | 詩篇

詩篇 46篇

 昨日午後、同労の夫妻が訪ねてくださいました。同年代なので、仙台名物の「ずんだ餅」を食べながら、これから先どのように歩むのかについて、話し合いました。あっという間に3時間が経っていたのにはびっくり!

 詩篇46篇というと、ルターが浮かんできます。讃美歌267「神はわがやぐら」はルターによるものですが、その中に「神はわがやぐら わが強き盾 苦しめるときの 近き助けぞ」とあります。 「苦しむとき そこにある強き助け」という46篇1節からとられた歌詞です。

 「そこに」ということばに目が留まります。神は遠くにはおられない、苦しむ者の「そこに」ある、しかも「強き助け」なのです。比較的自由に英訳をする聖書は、ここを「私たちが彼を必要とするとき、いつでも助けの準備はできています」と訳しています。

 だから私たちは恐れないと、歌は続きます。そこにあるのは「嵐の只中の静けさ」「災いの中での平和」とでも言うべきもの。2−3節は自然災害を思いますが、6−7節までを含めて考えると、ここでの大水や山々が揺れ動くというのは、人間社会の嵐のような事件、国と国との戦争のような出来事にまで広げられていきます。

 10節の「やめよ」とのことばにも目が留まります。それは、争いに明け暮れる者たち、国々に「戦いやめ!」との号令のように響きます。また、どちらが強く、どちらが偉いかと絶えず競い合っている者たちに、そのような戦いを「やめよ」との促しとして受け止めました。

 「万軍の主」を何によってないがしろにしているのだろうかと、自分自身に問いかけている本篇です。


あなたの王座は世々限りなく

2024年03月05日 | 詩篇

詩篇 45篇

 那須高原に住む友人宅を訪ねました。翌日昼はそば屋さんで「そば懐石」。店主はゴスペルが好きとのことで、食事の後私たちのためにSP盤(78回転)のゴスペルを、手回しの蓄音機で聴かせてくださいました。レコード針がディスクを回り出すと、あの懐かしいノイズとともに、神への賛美が響きます。「そば屋でゴスペル」〜そんな時間をつくりたいねと、心が通い合いました。

 本日の「みことばの光」は、この45篇の作者はおそらくダビデだろうと書いています。そうだとすると、1節はダビデの心、喜びを歌っています。

 それではイスラエルの王ダビデは、どの王のことを歌っているのでしょうか。つまり、2節以下の「あなた」とは誰のことなのだろうかという問いかけが湧いてきます。王である「あなた」とは誰なのでしょうか。

 6節に「神よ あなたの王座は代々限りなく あなたの王国の杖は公平の杖」とあります。ここでダビデが歌う王は神なのです。さらに、7節にも目が留まります。「神よ あなたの神は……」とは不思議なことばです。「神よ」と呼びかけているのですが、その内容は「あなたの神は…」なのです。

 けれども、新約聖書の光によって6−7節のことばを照らしてみますと、そこに見えてくるのは、神によって油を注がれたメシアのお姿です。それは英雄的な人間ではありません。神であり、王であるメシア、すなわちイエス・キリストがここから見えるのです。

 そして人々はこのお方に心を向けるのです。そして、そのようにして心を向けほめたたえることこそが、神である王、メシアへのあるべき迎え方なのだということを、知ることができます。

 17節には私への呼びかけ、私の人生を貫く務めが明らかにされます。それは神である王、イエス・キリストを呼び求め、いつまでもほめたたえること……。


知恵なき者の願い

2024年03月04日 | 詩篇

詩篇 44篇

 日曜日、午後に新しいトラム(路面電車)に乗りました。多くの乗降客がいて、順調な滑り出しのよう。でも、まだ「慣らし運転」のような走り方をしていると感じました。

 詩篇44篇は、聖書が記すイスラエルの民の歩み概観するようです。1−8節には、エジプトでの奴隷状態からご自分の民を神が、その御名のゆえに救い出されたこと、そして約束の地へと導かれたことを思わせます。

 そのあと9ー16節には、イスラエルが外敵によって踏みにじられる様子が描かれます。悲惨な出来事ですが、ここにはその理由、原因が明らかにされていませんが、彼らが神に背いたことによるというのは、旧約聖書の他の書に書かれています。

 さらに17節以下には、そのような中で神に大胆に助けを求める祈りがあります。26節の「御恵みのゆえに私たちを贖い出してください」ということばに目が留まります。大胆に何かを行う、大胆に何かを願うというと、その人の知恵とか力量とかいうことが大切ではないかと考えます。

 しかし、ここではそうではありません。本篇の作者は、「私の知恵ゆえに」とか「私の力のゆえに」ではなく、「御恵みのゆえに……」と願います。自分には知恵もなく力もないということが分かっているからこそ、ただひたすら神の御恵みに拠り頼むのです、しかも、大胆に……。


わがたましいよ

2024年03月02日 | 詩篇

詩篇 42篇

 一日10,000円で乗り放題の切符を用いて、ほぼ10年ぶりに兄弟を訪ねました。東日本大震災で多くの家屋が崩壊した通りは、整然とした街並みに…。ちょうど良い新幹線がなかったので、帰路は在来線で新幹線の始発駅に向かいました。半日旅でしたが、遠くに行けるものですね。

 本篇は、繰り返される「わがたましいよ   なぜ おまえはうなだれているのか 」が心に留まります。窮地に追い込まれたとき、「しっかりしろ」と自分で自分に語りかけることがあるのを、思いました。誰を信頼していいのかが見えにくくなっている「わがたましい」に、「神を待ち望め」と呼びかけるのです。

 「待ち望む」ということは、まだ答えがないのです。しかし、神は必ずご自分を信頼する者、ご自分を待ち望む者に答えてくださると信じているので、答えが見えない中でも待ち望みます。

 「いくら待っても答えなどはない」と、また「おまえの神はどこにいるのか…どこにもいないではないか」との声がひっきりなしに聞こえ、信頼をぐらつかせるような事情にあっても、それを振り払うように「神を待ち望め」と内なる自分に言い聞かせる…これが、神を信頼する者の歩みなのだと知らされます。


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