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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

目覚めよ、起きよ

2018年07月20日 | 士師記

士師記 5章

 昨日、「大雨が降り…そのようなことがあったのかもしれませんね」などと書きましたが、本章の「勝利の歌」の中に、ちゃんと「大地は揺れ、天も滴り、密雲も水をしたたらせました」(4節)、また「キション川は彼らを押し流した。昔からの川、キション川が」(21節)とありますので、「あったのかもしれません」どころか、そのようにして敵は敗退していったのです。昨日の文章を訂正しておきます。

 カナンの王ヤビン、そしてその軍の将シセラによって、特にカナン北部のガリラヤ湖の近くに相続地を割り当てられていたゼブルンとナフタリは、首根っこを捕まえられているかのような状態にありました。しかし、前章のように彼らは強力な敵を撃退したのです。そして、その戦いの様子をデボラとバラクが歌にしました。デボラが作り、バラクも歌に加わったのだと言われています。全篇が生き生きと歌われており、日本語でもテンポよく読むことができます。声に出して読むのはお薦めです。

 特に12節から18節の戦いのための召集の部分が印象に残ります。「目覚めよ、目覚めよ、デボラ。目覚めよ、目覚めよ、歌声を上げよ。起きよ、バラク。捕虜を引いて行き、アビノアムの子よ」という歌は、指導者たちへの目覚めの呼びかけです。長い間カナンの王に隷属しなければならなかったイスラエルは、それが日常、当たり前という思いをだれもが持っていました。そのような現状を、どのようにして打破するのか、神は指導者に覚醒を与えられたのです。デボラが、そしてデボラからバラクがというように立ち上がり、ゼブルンとナフタリが立ち上がり、他の部族も自発的にはせ参じました。ここには、加わらなかった部族のことも歌われているのが印象に残ります。

 何かに勝利するためには、まず「だめだ」「どうすることもできない」と思う自分自身に勝利することから始まるということを、「目覚めよ、…起きよ」ということばが伝えてくれました。感謝です。


主が先立って

2018年07月19日 | 士師記

士師記 4章

 4章では、士師デボラによってカナン王ヤビンが滅ぼされる様子が劇的に描かれています。

 カナン王ヤビンは20年間イスラエルを苦しめます。理由はイスラエルが主の目に悪であることを重ねて行っていたからです。「ヤビンには鉄の戦車が900台あり」ということばからは、どれほどカナンがイスラエル(ここでは北部のゼブルンやナフタリの相続地を中心とした所)を震え上がらせていたのかということが伝わっています。

 そのような窮状の中から叫び求めたイスラエルに、主はデボラを与えてくださったのです。

 デボラはバラクに声をかけ、バラクはゼブルン、ナフタリ部族から一万人を召集してタボル山の上に上らせ、900両を率いてイズレエルの平原をキション川沿いにタボル山に向かうシセラ率いるカナン軍を急襲して全滅させ、ついにはシセラもモーセのしゅうとの子孫であるケニ人の妻ヤエルによって殺されてしまうという筋書きです。実際に現地をたどってみたい場面です。

 5章には、ちょうどシセラたちの戦車がキション川沿いをタボル山を目指していたときに大雨が降り、戦車が身動きできなくなったところでイスラエルが山から一斉に駆け下りたので、カナン軍は混乱状態に陥ったのです。

 14節の「主があなたに先立って出て行かれるではありませんか」というデボラのことばに目を留めます。デボラはバラクを見込んで声をかけたのでしょうが、バラクは今ひとつ煮え切りません。デボラが一緒に行ってくれたら…などという始末。でもバラクには人望があったのでしょう。一万の人々を集めるのですから…。

 わかっているけれどももう一歩が,というときに、誰かの一言が行動を促すということがあると、自分のことをあれこれと振り返りながら思い返しています。


忍耐する神

2018年07月18日 | 士師記

士師記 3章

 昨日は北に100㎞ほどのマールブルクを訪ねました。旧市街は山の上に城があり、中腹にマルクト(広場)があるという坂の町。木組みの美しい町が坂道に連なります。グリム兄弟が学んだマールブルク大学は、現存するプロテスタント大学としては最古の歴史を持ちます。私たちにとっては四度目の訪問でしたが、その都度新しい発見があって飽きません。もう一つの町を訪ねる計画でしたが、結局この町だけで目一杯。欲張ってはいけませんね。

 士師記ではこの章から士師たちが登場します。3章に登場するのはオテニエル、エフデ、そしてシャムガル。士師記には、イスラエルの民の背信⇒神のさばき⇒イスラエルの叫び⇒さばきつかさによる救いとの繰り返しが見られます。オテニエルが登場するときもエフデが登場するときにもあります。

 イスラエルの人々は自分たちの神を忘れて、バアルやアシェラに仕えていたのです。それならば、アラム・ナハライムの王によって苦しめられたときも、モアブの王エグロンに苦しめられたときも、自分たちが頼りにしているバアルやアシェラに願えばよいはずです。なぜ彼らは、主に叫び求めたのだろうかと考えるのです。彼らは、自分たちが苦しめられるのは主の怒りによるものだと気づいたのかもしれません。そこで主の怒りを治めてもらいたいとして願ったのでしょうか。

 主はこのような場合に、「わたしを捨ててバアルやアシェラに仕えているのだから、バアルやアシェラに願え、わたしは知らない」となさらずに、救助者オテニエル、エフデを送ってくださったのです。ほんとうに驚くような対応です。新約聖書ローマ人への手紙には、神が忍耐の神であると繰り返し書かれています。神の忍耐とはどれほど大きなものなのでしょう。そして、神の忍耐によって今の私がこのようにあるのです。


別の世代へ

2018年07月17日 | 士師記

士師記 2章

 この部分は、1-5節と6節以降の二つに分けることができます。前半は主の使いがイスラエルの人々に神のことばを告げたことが、後半はヨシュアやともに歩んだ指導者たちがいなくなったあとイスラエルはどのようであったかということが書かれています。そして、前半と後半は時間的な順序ではなくて、どちらもヨシュア後のイスラエルの姿が描かれています。

 10節の「…彼らの後に、主を知らず、主がイスラエルのために行われたわざも知らない、別の世代が起こった」ということばを心に留めました。

 「別の世代」とは、まったく違った民族ということではなくて、ヨシュアやヨシュアとともに歩んだ人々の子孫、ということです。神が小さく弱い彼らとともに歩み、約束のとおりに前進させてくださった数々のことを、ヨシュアの世代の人々は経験しました。しかし、その経験は「別の世代」には受け継がれてはいきませんでした。

 ヨシュアの前にイスラエルを導いていたモーセは、約束の地を目の前にして約束の地に入ったらこのように生きよと、ことばを与えました。申命記です。「聞け、イスラエルよ。主は私たちの神。主は唯一である。あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」(申命6章4,5節)と命じたモーセは、子どもにもこのことばの意味を教えるようにとも語っています。

 けれども、ヨシュアの時代の後の人々は、主への信仰を継承しませんでした。彼らは、主のことばを聞けなかったのでしょうか。そうは思えません。しかし、彼らが目にしている景色、彼らが生きていた社会は主への信仰を捨てて他のものへと心を動かすもので満ちていたのではないかと想像するのです。

 そして現代…。信仰の継承のためには、難しいことがたくさんあります。そのような中で「別の世代」に神を愛することを伝えることをあきらめてはならないのだと語っています。


追い払うことなく

2018年07月16日 | 士師記

士師記 1章16-36節

 今年のワールドカップサッカー、優勝はフランスでしたね。中心市街地は、両国の旗をたなびかせた自動車がクラクションを鳴らしながら、それぞれの国の健闘をたたえ、優勝を祝っていました。

 1章後半には、ヨセフ一族のマナセとエフライム、ゼブルン、アシェル、ナフタリ、ダンがヨシュアによって割り当てられた相続地を得ることができたのかが記されています。彼らは、先に住む他の民を追い払うことなく、いや、追い払うことができなかったのです。

 イスラエルが強くなった時にも、追い払ってしまうことがありませんでしたし、ダンに至っては、自分たちの相続地のうちの山地から出ることができなかったと書かれています。

 「追い払う」ということばに対して、相手がかわいそうだ、共存できるのならば…などという考えが示されるかもしれません。けれども、彼らが先住の民族を追い払えなかったということが、自分たちが弱くなったときに反対に追い出されるということになるのです。それが士師記で繰り返されます。

 きょうの「みことばの光」のタイトルは「不完全な占領」とあります。不徹底、不完全についての言い訳はたくさんあるでしょう。「相手が強かったから」がもっともらしい言い訳になります。しかし主は、彼らにこの地を既に与えておられたのです。弱いことや小さいことはしないことの言い訳にはならないのだと気づかされます。


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