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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

誓っているからだ

2013年09月12日 | 士師記
士師記21章


 士師記で誓いといえば、エフタを思い出します(11章)。そして、愚かな誓いが当事者ばかりではく多くの人々を巻き込んでいくことを、最後の章でも描きます。

 ベニヤミン族は壊滅的な打撃を受けました。生き残りは男子600名。このままでは12部族の一つが欠けてしまうことにイスラエルは気づき、声をあげて激しく泣きます。何とかしなければとの危機感が彼らを動かしますが、自分たちは娘をベニヤミンに嫁がせないと誓っています。

 彼らの解決策は、自分たちの誓いを破らずに、自分たちが傷みを負うことなしに、ベニヤミン部族600人に妻をあてがい、部族の存続をはかろうとするものでした。それがさらなる犠牲者を、悲しみに暮れる者を生むなどということはお構いなし。

 士師記は「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」で閉じます。考えてみると、「自分の目に正しいと見えることを行う」のは多くの人が当たり前のように受け入れている価値観ではないでしょうか。また、「王などいらない」(神などいらない)というのも、近代社会のスローガンのようでもありました。
 
 士師記は今から3,000年以上も前のごく小さな地域での出来事を記します。王(神)を持たず、自分の目に正しいと見えることを行うとどうなるのかを、明示しています。
 混乱、腐敗、そして罪に罪を重ねる世の中が、そこに描かれていました。
 今を映しているのです。

     


勢いに任せて

2013年09月11日 | 士師記
士師記20章36-48節


 エフライムに住むレビ人のそばめがベニヤミン部族の町で陵辱され殺されたことは、ベニヤミン部族対イスラエル部族連合との戦いへと発展していきました。最初は有利に戦いを進めたベニヤミン部族は、慢心もあったのでしょうか。ここに来て、決定的な敗北を喫してしまいます。

 「ベニヤミン討つべし」との熱狂は徹底的な破壊になり、ついにはベニヤミン部族は存亡の危機に瀕するまでになってしまいます。
 自分たちの側に正義がある、悪を行う相手を征伐しなければ世界平和のためにならない…、このような論法は、今に至るまで続きます。そして、またどこかで「正義の鉄槌(てっつい)」が振り降ろされるのですが、それで世界が平和になったなどということはあまり聞きません。結局は、双方に大きなダメージを与え合うまで戦います。

 「二度と戦いのことを習わない」(イザヤ2章4節)という日が来るのは、いつでしょう。

 この箇所には、30人、18,000人、5,000人、2,000人、25,000人、600人などの数が目に留まります。これは戦い、殺され、いのちからがら生き残った人々の数です。どんなことでもそうですが、数字で表わされたその陰には、愛する父や兄弟、息子を失って嘆き悲しむその何倍もの人たちがいるのだということを、見逃しがちになるのが、私たちなのです。

     


主は仰せられた

2013年09月10日 | 士師記
士師記20章17-35節


 自然は一瞬美しい景色を見せてくれる時があります。Img_0196
けさの東の空はハッとするほどでした。朝5時17分ごろです。5分後には消えていました。

 ベニヤミン部族を成敗する戦いが始まりました。しかし、最初の二戦は大敗北。三度目にしてようやく部族連合が勝利したというのがこの箇所です。

 ここでは「主は仰せられた」が三度出てきます。「ユダが最初だ」とのことばに一戦目を交えましたが、敗北。「攻め上れ」とのことばに二戦目を戦いますが、またもや敗北。三度目は「攻め上れ。あす、彼らをあなたがたの手に渡す」とのことばを受けて戦った三戦目で、ようやく部族連合はベニヤミン部族に勝利するのです。

 神の命令を受けて戦うのですが、なぜか勝てません。みこころを行うのだが願いどおりに物事が進まずに、かえって違った局面に進む…などということを思い起こします。

 この間、人々の心が探られるというのにも注目したいと思います。怒りに任せて「戦いだ!」と始めたけれども、自分たちはどうなのかを、敗北の度に探られています。「みことばの光」は彼らは敗北をかな寝て行く中で悔い改めに導かれて行くのだと解いています。

 神の「イエス」は、ときには願いどおりに物事が行くためではないのだということに気づかされます。

   


わずかのうそ

2013年09月09日 | 士師記
士師記20章1-16節


 不安定な天候が続きましたが、今朝は雲の切れ目から青空、そして陽射しが時折注いでいます。あれほど「暑い、暑い」と嘆いていましたが、朝歩きの肌に冷気が心地よく触れていました。

 士師記17章以下は暗い時代を語り、「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」とのことばを証ししています。
 ベニヤミン部族の地ギブアでの凄惨な事件は、被害を受けたレビ人(彼も実は加害者の一人なのですが)の訴えによって、イスラエル部族連合対ベニヤミン部族の対立、戦いへと発展していきます。

 心に留めるのは、事情聴取に応じて答えるレビ人の巧妙なうそ。
 彼はおおむね起こったことを語っていますが、自分が責められるようなことは伏せます。たとえば、「彼らは私のそばめの暴行を加え」たと言いますが、そばめを彼らに渡したのが自分であったことについては沈黙します。

 「みことばの光」にあるように、他人の罪を糾弾するのはたやすいのです。それではあなたには問題がなかったのですか、と問われると急に勢いがなくなるようなことがあります。手柄は自分のものにするのですが、責任は負いたくないという、自分中心な思いが常に湧いてきます。

 だから、恵み深い主の前で、ほんとうの自分の姿を見つめ続けるという営みがなくてならないのです。辛いことですが、十字架の主の前でそれができるのは大変ありがたいことだと、思います。

       


どちらがよいですか

2013年09月07日 | 士師記
士師記18章

 きのう本屋さんに立ち寄り、1冊の本を買い求めました。Photo_2
 最近は通販で本を購入することが多くて、本屋さんでほしい本に出会えたのは久しぶりの体験。佐々木正美さんの「完 子どもへのまなざし」(福音館書店刊)です。すでに出ている2冊の「子どもへのまなざし」に続くもので、著者の温かなまなざしが、子どもたちに、親や保育者にそそがれています。読み終えての感想をまた載せたいと思います。


 ダン部族の北進に、前章のミカとお抱え祭司とが絡むのがこの章。
 ダン部族は自分たちの割り当て地を得ていたのですが、地中海沿いの低地にはエモリ人がなお力を持っていて、山地の狭い所で不安定な生活をしていました。
 そこで、新しい地を求めようとして偵察する途中にミカの家に立ち寄ったところ、祭司がいるではありませんか。そこで成功するかどうかを神に伺うようにと願うのです。
 祭司はすぐに「安心して行きなさい」と答えますが、彼には神にとりなした様子は見られません。神の名を用いて、相手が喜ぶことを安っぽく保証します。

 さらに、ヘルモン山のふもとにあるライシュという町を攻めに向かう途中、ダン部族の者たちは、再びミカの家に行き、ミカのための宮から偶像を盗み、さらにあの青年祭司をも連れて行ってしまうのです。ダン部族の者たちは祭司に「どちらがよいですか」と尋ねます。心をくすぐることばです。
 祭司の心は弾み、ダンといっしょになって行ってしまうのです。

 物事を決める際に、自分にとって「どちらがよいか」は多くの人々が考えることです。しかし、もう一つの基準が間違いなくあります。それは、「神がそうせよと言っておられるかどうか」という基準です。これを忘れると、間違いなく判断を誤ります。
    


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