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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

弱い者なのに強くされ

2023年08月11日 | 士師記

士師記 6章1−18節

 広がる夏空の下、ポーランドとチェコの大地をひた走り、片道1000キロをドライブして帰宅しました。

 士師記6章からはしばらくギデオンの物語が続きます。

 ギデオン登場の原因となったのは、砂漠の民ミディアン人が七年にわたってイスラエルを苦しめたことにありました。しかし、そもそもなぜイスラエルがミディアン人に苦しめられたかについては、双方の力関係、緊張によるものではなかったのです。

 2ー5節にイスラエル人のみじめな生活が描かれます。特に、「いなごの大群のように押しかけて来た」とのことばが目に留まります。せっかくの収穫も自分たちのものとはならないのです。しかしここでは、ミディアン人とはなんとひどいのだろうかと言っているのではありません。原因はイスラエル人にありました。彼らが神の御声に聞き従わなかったのです。ですから、神は彼らを「ミディアン人の手に渡された」のです。

 それとともに、神は彼らにあわれみを賜ります。ギデオンを士師としてミディアン人に立ち向かい、イスラエルの民を治めるために用いられるのです。しかし、ギデオンは「待ってました!」と登場したのではありません。ミディアン人から隠れ、こそこそと小麦を打っていたのです。

 「力ある勇士よ」は神の使いががギデオンを皮肉って言ったのではありません。「主があなたとともにおられる」ゆえに、彼は「力ある勇士」になりうるのです。それは時代を超えて、神の民すべてに当てはまる大切な事実なのです。

 「……弱い者なのに強くされ、戦いの勇士となり、他国の陣営を敗走させました。」 ヘブル人への手紙11章34節


目覚めよ、目覚めよ

2023年08月10日 | 士師記

士師記 5章

 一度は訪ねたいと願っていた、アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所跡を見学しました。ことばで表すことの難しいさまざまな思いが湧きました。ガイドの方が、見学者の気持ちを汲んでくださり、幸いな見学ツアーだったと思いました。

 本章は、4章の出来事を受けてのデボラとバラクの賛美です。まず、二人はどのようにして賛美したのだろうか、またそれはどのように表現されたのか、たとえばどのような旋律がそこにはあったのだろうかと、想像は膨らみます。

 その中で12節のことばに目が留まりました。ここでは自分自身に言い聞かせるように「目覚めよ、目覚めよ、デボラ」また「目覚めよ、目覚めよ、歌声をあげよ。起きよ、バラク」と歌います。「目覚めよ」という呼びかけにはどのような思いが込められているのだろうかということです。

 この呼びかけは自分が自分にしたものと考えるのですが、一方で、神が二人を奮い立たせておられることばだというのも考えられます。20年もひどく圧迫されるというのは、それに慣れてしまっているということでもあります。「どうせこんなものだ」などと思っている者たちに、神は「目覚めよ、目覚めよ」と声をかけてくださいます。神からの声がけ、語り懸けが真に人を目覚めさせるものなのです。


誰に頼るか

2023年08月09日 | 士師記

士師記 4章

 「シンドラーのリスト」という映画で知られる、オスカー・シンドラーの工場跡にある博物館を訪ねました。重いテーマの展示です。きょうは、それとの関連の施設を訪ねる予定です。

 デボラは女性の士師。女預言者と紹介されています。そして、人々は彼女のところにさばきを求めてやって来たともあります。民の間のもめ事の調停をしていたと考えられます。6節からは、彼女が民の間で信頼され、指導力もあったことがわかります。

 デボラがなぜ、カナン人の将軍シセラとの戦うようにとバラクに命じたのかは書かれていません。しかし、6−7節のデボラの言葉からは、神がバラクにも同じ命令を与えられたのではないかと想像できます。しかしバラクは、一緒に戦いに言ってほしいとデボラに願うのです。この時バラクはだれに頼っていたのでしょうか。もしかしたら、主のことばではなくて、指導者デボラの力を頼りにしていたと考えられます。

 戦いはイスラエルの勝利となり、敵の将軍シセラはいのちからがら助けを求めに、友好関係にあった家に人へベルの家にかくまってほしいと願います。将軍ですから戦いの猛者。しかし、劣勢になると彼は友人の妻に頼るのです。しかし、これが彼の 命取りとなりました。

 ここから、「誰に頼るか」を改めて思います。

 「ある者は戦車を ある者は馬を求める。   しかし私たちは 私たちの神 主の御名を呼び求める。」詩篇20篇7節


慣れを打破する

2023年08月08日 | 士師記

士師記 3章

 月曜日から木曜日まで、東の隣国を訪ねています。昨日は延べ1000キロのドライブ。いろいろな天候を一日のうちに経験できました。

 3章には、イスラエルを窮地から救うために神が立てた3人の名前が登場します。オテニエル、エフデ、そしてシャムガルです。彼らはそれぞれ個性的でした。オテニエルはアラムの手から、エフデはモアブから、そしてシャムガルはペリシテの手からイスラエルを救いました。いや、正確には神が3人を用いて救いを与えられたのです。

 14節に、「…イスラエルの子らは十八年の間、モアブの王エグロンに仕えた」とあります。18年もの間敵国に苦しめられるとは、どんなに辛いことだったかと想像するのですが、同時に、18年という長い間自分たちが異国の王に仕える厳しさのようなものを想像してしまいます。いや、長い間支配下に置かれることで、辛さ以上に慣れがもたらす危機のようなものを感じます。それが当たり前であるというような…。

 そのような時に、神はエフデを士師として立てられたのです。それは彼らの「慣れ」を打ち破るものでした。自分が罪の奴隷になっている厳しさが続くと、それが慣れになるということがあるのです。「慣れ」はイエス・キリストとの結びつきをどうでも良いようなことに追いやってしまう大きな誘惑の一つだと、思いました。


ボキム

2023年08月07日 | 士師記

士師記 2章

 四日間はあっという間でした。お昼を一緒にする方が、今日から私たちが出かける場所に最近行かれたとのことで、有益な情報をいただくことができました。本日は隣国に向かいます。超ロングドライブ! 

 ヨシュアを指導者として、カナンの地を割り当てられたイスラエルでしたが、その占領は不徹底に終わったことが1−5節から分かります。神の使いのことばは、どのような点で不徹底だったことを明らかにしています。それは、カナンに住む民と契約を結んではならなかったと神が言われたにも関わらず、彼らはそれを守らなかったということでした。

 その時彼らは泣きました。このことからその地は「ボキム」と呼ばれるようになったとあります。泣くことと、主にいけにえを献げることをしたのだから、自分たちの罪を悔い改めたかのではないかと思いたいのですが、どうもそのようには読めません。彼らはなぜ泣いたのだろうかと考えてみますと、民は結果を嘆き、泣いているのです。泣くべきは自分たちが神のみおしえに従わなかったということについてなのですが、そうではないのです。

 7節のことばが目に留まります。「ヨシュアがいた間」「ヨシュアより長生きした長老たちがいた間」、民は主に仕えたということばです。ヨシュアも、長老たちも荒野の旅を経験した人々でした。主に仕える者への祝福やそうでない場合の厳しいさばきを自分の目で見、体験しました。しかし、そのような指導者たちがこの世を去り、共同体から消えてしまった時、残された者たちへの主への姿勢は明らかに変わったのです。

 「世代」ということばが繰り返されています。「その世代」「次の世代」というようにです。世代が変わっても変わらないものがある、それこそが自分たちが受け継ぐべきもの。それは神への信仰と従順です。

 少し前「宗教二世」ということばが飛び交っていました。そのような採り上げ方をされることによって、自分たちが萎縮して、大切な神への信仰と従順とを次の世代に伝えることにひるむべきではないことを、この箇所は教えているのだと読みました。


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