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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

救い始める

2023年08月23日 | 士師記

士師記 13章

 日本から夏季伝道に来ておられる神学大学の学生が、自宅近くに「パンと魚」といういフライヤーをポスティングしてくださいました。夏の暑さもあと数日との予報。秋がそこまで来ているようです。

 士師時代のイスラエルは、東はアンモン人から、西はペリシテ人からの脅威にさらされていました。エフタはアンモン人と戦って勝利しましたが、ペリシテ人の脅威に立ち向かうために神が選ばれたのはサムソンでした。

 士師の中でサムソンは最も名を知られ、異色な存在。しかも、神は彼が生まれる前からペリシテ人の手からイスラエルを救うための器として定めておられたのです。この箇所には、サムソンの両親の戸惑いと信仰が描かれています。

 5節に主の使いのことばがあります。「彼はイスラエルをペリシテ人の手から救い始める。」救い始めるとは、サムソンで完結することではないという意味でしょうか。サムソンに始まるペリシテ人からの解放のわざは、サムソン、サウル、ヨナタンと続き、ダビデによってようやく終結します。

 一人で完結する働きもあれば、そうでないものもあります。自分がその働きの完成を見ることができるのだとしたら喜びが湧いてくることでしょう。しかし、そうでなかったとしても、神が始められた働きは受け継がれていくのです。自分がいなければならないというのは時として神のわざを妨げる思い上がりにも通じるのだと、ここから考えました。


いのちをかけて

2023年08月22日 | 士師記

士師記 12章

 食材を求めつつ、隣町の食料品店に教会のフライヤーを貼ってもらいに行きました。今回も快く貼ってくださいました。店を訪ねる日本の方々のの目に留めてくださるようにと、神に祈っています。

 ギデオンの時と同じように、今回もエフライムはエフタを責めました。カナンの地の十二部族の割り当ての地図で確認しますと、エフライムは割り当て地の中での主要な地域にあり、ギルガル、シロ、ベテルなどを含むということから、自分たちこそイスラエルの中心だという自負があったのかもしれません。

 ギデオンはなだめるようにしてエフライムの怒りに対処しましたが、エフタの対応はは正攻法だったと言えましょう。彼らはエフライムの痛いところを突いたのです。高慢は鼻持ちならないということが、ここでのエフライムの態度からも分かります。

 3節に「あなたがたが救ってくれないことが分かったので、私はいのちをかけてアンモン人のところに進んで行った」とあります。その時とエフタの誓願の時とが重なるのだとしたら、娘のいのちはエフライムの非協力と関係があったと考えたのかもしれません。「いのちをかけて」ということばと彼の一人娘とが重なったかのように読むことができます。

 その結果、同じイスラエルの民同士の戦いになります。いのちを懸けて戦った者への感謝なく、自分たちのプライドゆえに責められるのだとしたら、エフタはどんなにやるせない思いだっただろうかと、想像するのです。


愚かな誓願?

2023年08月21日 | 士師記

士師記 11章26−40節

 先週木曜日に転倒し打撲した妻の杖の役目をしようとしているのですが、ゆっくりと歩く妻に歩調を合わせるのは難しいと思っています。一緒に歩んでくださる主イエスは、きっとぴったりと弱い人に合わせて一緒に歩いてくださるのだろうな、と想像しています。

 投書は交渉によってアンモン人との戦いを避けようとしたエフタでしたが、アンモン人の王が聞き入れないので、戦いを交えることになりました。

 29節の「主の霊がエフタの上に下ったとき」ということばが目に留まりました。主によってギルアデの首領(指揮官)とされたのですから、その務めを為すための必要は主が与えてくださることをここで知ることができます。主はエフタを士師であると認証されたのです。

 それだけで十分戦えるし、それだけで勝利できたのです。しかし、エフタはここで誓願をします。それは、勝利の確証を得たかったからではないでしょうか。

 そして、彼の誓願は自分の娘を失うことになってしまうのです。そして、この誓願を果たすことによってエフタの子孫は絶えます。なぜならば娘がただ一人の子どもだからです。

 ここを軽率な誓願だと言ったり、大切な娘を守るためならば誓願を破ってもよいといったりすることもできます。確かに悲劇ではありますが、苦しみながら結果を受け入れようとするエフタを、そして自分への定めとして受け止める娘を愚かだとして片づけることはできないのです。


見るに忍びなくなり

2023年08月19日 | 士師記

士師記 10章

 三週間いっしょに過ごした孫たちが、日本に戻って行きました。彼らにとっては大冒険の日々だったと思います。私たちもとても良い日々でした。ちょっと疲れましたが……。

 10章には二人の士師の名前があります。トラとヤイルです。それぞれについての描写は簡潔でトラは23年間イスラエルをさばき、ヤイルは22年感イスラエルをさばいたとあります。

 しかし、これらの士師たちがその役目を終えて退くと、この時代の特徴がここにも明らかにされます。6節の「イスラエルの子らは再び、主の目に悪であることを行い…」がそれです。つまり、イスラエルの背信と堕落 → 主のさばきとしての周辺民族による圧迫 → 主への罪の悔い改めと叫び → 主が士師を起こされる が繰り返されるのが士師の時代なのです。

 それにしても、イスラエルの主への背信はひどいものです。6節を読むと、ここまでするのかというほど、さまざまな神々に主がお選びになった民が仕えているのです。主はイスラエルにアンモン人とペリシテ人を送ります。彼らが慕い仕えた神々の民です。18年はイスラエルにとっての暗黒の日々。ついに民は神に助けを求めて悔い改めます。

 神は彼らの叫びを一旦は退けられます。それは当然のこと。しかし、民はよほど辛かったので、なおも神に助けを求めます。16節に目が留まります。彼らはついに自分たちの中から神々を取り去り、主に仕えます。助けてもらいたいという一心での行為。第三者の目は冷ややかですが、主は彼らをそのようにはご覧になりませんでした。

 「主はイスラエルの苦痛を見るに忍びなくなられた」のです。神のあわれみはこれほどまでに深いものかと驚くとともに、私たちの人への態度がどんなに冷ややかで上っ面なものかという事実を突きつけられているような箇所です。

 イエス・キリストの十字架を見上げます。


何に頼るか

2023年08月18日 | 士師記

士師記 9章41−57節

 旅先からの帰り道、インターチェンジ2キロ前で大型トラック同士の事故のために通行止めに。あと30分足らずで帰宅できるのに、高速道路上に5時間とどまっていました。救急隊員が停止中の車に水を配ってくださったり、どなたかがソーセージを分けてくださったり、道路上でサッカーをしたりと不思議な連帯感のようなものが…。私たちも高速道路でウォーキングしました。夕方4時半帰宅予定が10時過ぎでいましたが、得難い体験でした。そのために昨日はブログの更新が遅くなりました。予定どおりには行かないものですね。

 ここにはシェケムに報復をするアビメレクの姿と、一人の女が投げつけたひき臼によって殺されてしまったアビメレクの姿が描かれています。

 怒り狂うアビメレクを恐れてシェケムの人々は逃れ場に隠れます。しかし発見されたアビメレクによって殺されてしまうのです。人々が逃れたのはエル・ベリテの神殿の地下室。ここならば安全だと考えたのでしょう。しかし、そうではありませんでした。

 ここを読んで「いと高き方の隠れ場に住む者   その人は 全能者の陰に宿る」という詩篇91篇1節のことばをおぼえました。

 アビメレクは自分の力に頼んでテベツを攻めますが、思わぬ最期を迎えます。勇士であることを誇りとしている自分がこのような終わり方をするべきではないと、道具持ちに自分を刺すように命じるのです。ここからも、己の力に頼る者のもろさのようなものを覚えます。人生、予定どおりには行きません。


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