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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

自分の目に正しいと見えること

2013年09月06日 | 士師記
士師記17章



 士師記のテーマを示す「そのころ、イスラエルには王がなく、めいめいが自分の目に正しいと見えることを行っていた」ということばが、この章にも見られます。
 
 それはひどいものです。
 自分の母親から銀を盗んだ息子。盗んだ息子を、おそらく「私が盗んだ」と正直に言ったからか、あるいは無事に自分の手元に戻ってきたからか、母親は「主が私の息子を祝福されますように」と言います。
 母親は息子から返してもらった銀で像を造り、息子ミカは、自分のための神の宮を持ち、自らが祭司となっていました。何か物足りないと思っていたのでしょうか。そんなときに、レビ人の若者が家に飛び込んできたのです。渡りに舟とばかり、ミカは若者を祭司に任命します。

 気になるのは、母親もミカも主が祝福されるようにとか、主が私を幸せにしてくださるとか言っていることです。自分にとって都合の良いことが起こったら主の祝福だと捉え、都合の良いことが起こるようにと願う…、これこそ「めいめいが自分の目に正しいと見えることを行」うということです。

 きょうのブログタイトルに、多くの人は違和感を感じないかもしれません。だって、自分が正しいと思うことを貫くのが自立した人間だという考えが多数を占めるからです。けれども、人間の自立とは「王を持つ」ことから来るのではないかといつも思うのです。矛盾するようなことですが…。その「王」とはもちろん私たちと同じ人間ではありません。

 神を王としてあがめ、聴き、従うことこそ、人がそれにふさわしく歩む、自立した道なのではないでしょうか。


心を明かす

2013年09月05日 | 士師記
士師記16章


 「だれに心を明かすか」はよく考えなければなりません。
 欠けだらけの私たちお互いは、「ここだけの話だけど…」と「秘密協定」を一時は締結しますが、あっという間に「ここだけの話でなくなってしまう」場合が多いのです。

 サムソンがデリラに自分の心のうちを明かしたのは、致命的な失敗でした。サムソンは、デリラが毎日同じことを言ってしきりにせがみ責め立てたので、死ぬほどつらかったとあります。「私を愛しているならどうして…」と迫られたのですからたまりません。デリラはよほどサムソンにとって魅力的な女性だったのでしょう。

 とうとうサムソンは、自分の力の源がどこから来ているのかを明かします。その先は聖書が記すとおりに物事が進みます。これまでは、力に任せてしたい放題をすることのできたサムソンが、痛めつけられ足かせをかけられて暗い牢の中で臼を引いているのです。

 心に留めたいのはサムソンの祈り。「御心に留めてください。」「この一時でも、私を強めてください。」彼はここに来て、やっと自分の心を明かすべき相手に明かしたのだといえます。自分の力に慢心していたサムソンは、それが神から来ることを告白しています。同時に、彼の願いは自分のえぐり取られた二つの目のために復讐したいという私怨のようなものでした。けれども神は、サムソンの整わない願いをさえ受け留めて、ペリシテ人との間に事を起こされた(14章4節)のです。


私たちの支配者は…

2013年09月04日 | 士師記
士師記15章


 サムソンを読んでいると、映画で観てみたいという思いと、こんな人が近くにいたらきっと大変だろうという思いとが交錯します。きょうの箇所でも、報復に次ぐ報復。けれども、破天荒のサムソンの心には神への信仰があるのだということを、垣間見せてくれる箇所でもあります。

 心に留めたいのは、ユダの人々のことば。「あなたはペリシテ人が私たちの支配者であることを知らないのか。」私たちの主は神であるとは言えずに、押さえつけられているペリシテ人を恐れているのです。しかし、サムソンは「何を言っているのか。われわれの支配者は主なのだ」とは言い返していません。「彼らが私にしたとおり、私は彼らにしたのだ」との答えは、いかにもサムソンらしいと思うのです。

 さらに、ろばのあご骨で1000人を打ち殺した後で、のどが渇いたサムソンは主に叫び求めます。すると、主は彼の叫びを聞いて水を与えられたという箇所が、心を打ちます。主は、かくもあわれみ深いお方なのだということを覚えます。
 主はサムソンの「蛮行」を責めるようなことはなさいません。しかしそれは、彼の態度をよしとしておられるということではないでしょう。主はサムソンが品行方正だからではなくて、主を信じているので用いられているということなのです。ここに、私への励ましがあり、戒めがあると思いました。
      


主によることだとは…

2013年09月03日 | 士師記
士師記14章


 日曜日夕方から月曜日にかけて、用事があり福島に行きました。桃畑はおおかたの桃が採られていましたが、代わりに林檎が色づき始めました。猛暑の日曜日でしたが、着いてみると涼しいのです。坂の途中にパン屋さんがありました。ここは、子どもの頃よくコッペパンを買ってもらったお店です。ありました! ピーナツクリームが塗ってあるコッペパン。忙中閑あり。

 他の士師たちとサムソンを比べて思うのは、サムソンは自分のやりたいことを辺り構わず行うことでペリシテ人の支配から自分たちの民を一時的に解放したということです。ギデオンは主からの召しの声を聞きました。エフタはアモン人と戦うとの自覚を持っていました。しかし、サムソンは思いのままにふるまうのですね。

 「あの女と結婚したい!」と思ったら、まるで幼子のように駄々をこねるように見えてしまうサムソンの振舞。しかし、そんな彼のわがままさの背後に、「主はペリシテ人と事を起こす機会を求めておられた」ということばが絡まってきます。だからといって、わがままを言ってもよい、何をしてもよいということではないのは自明です。
 
 そのときは「主によることだとは知らなかった」が、後になってわかる、ということは多くの人が体験すること。 
 だからこそ、「主によること」というものの見方を、いろいろな出来事の最中に持つことがでたら、と願います。
       


不思議というお方

2013年09月02日 | 士師記
士師記13章


 8月最後の土曜日、教会の少年野球チーム(「プレイズ」といいます)が夏の大会に参加。猛暑の中でがんばりましたが惜敗。何年間か遠ざかっている勝利もお預けになりました。しかし、監督やコーチ曰く。「次につながる負けでした。」
 そして昨日の午後は、雷雨と激しい雨のために、練習中止。教会でUnoや卓球で楽しい時を過ごしたようです。以前に比べてまとまりが出てきたかなぁとは、私の印象。

 日曜日から、士師記を再び読むようになりました。
 きょうからはサムソンの登場。この章にはサムソン誕生の経緯が記されています。不妊の女性に神が介入して子どもが産まれ、その子は生まれる前から主に捧げられたものとしてのあり方を求められるというのです。

 心に留めたのは「わたしの名は不思議という」ということば。マノアとのやり取りをしたこの方について、新共同訳聖書は19節を次のように訳して明らかにします。
 「マノアは子山羊と穀物の献げ物を携え、岩の上に上って主、不思議なことをなさる方にささげようとした。マノアとその妻は見ていた。」
 また、英語聖書の中には「理解を越える」と訳すものもあります。

 エレミヤ書33章3節に、「わたしを呼べ。 そうすれば、 わたしは、 あなたに答え、 あなたの知らない、 理解を越えた大いなる事を、 あなたに告げよう」とあります。
 日常の何気ない出来事、たとえば人との出会いや思わぬ体験をよくよく考えますと、そこに「不思議という」お方の不思議がちりばめられていることに気づきます。
 それは、自分にとって「よかった」と思えることに限らないのではないだろうか、と思うのです。
    


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