ヨエル書 1章
月曜日に、トルコのイズミールに飛びました。火曜日から6人で、パウロの伝道の旅とかかわりのあるトルアスやアソス、そしてヨハネの黙示録2−3章に書かれている、アジアの七つの教会跡をたどる、スタディ・ツアーです。
「みことばの光」は今日からヨエル書を読みます。「ヨエル書を読む前に」には、ヨエルの名前が「主こそ神である」という意味を持つとあります。「主こそ神であり、人は神ではない」という事実を、ヨエルの時代に生きた人々も、そして現代の私たちも受け入れなければならないのだと、身の回りに起こるさまざまな出来事を見る時に、思います。
1章の初めにはいなごの被害の様子が描かれます。4節のいなごの被害の描き方と3節の「あなたがたの子どもたちに伝え……子どもたちはその子どもたちに……その子どもたちは後の世代に……」という語り方には何か似たものを感じます。伝えるべきメッセージが重要であって、何が何でも世代を超えて伝えなければならないことと、いなごの被害が深刻であって、食い尽くされてしまうということとが対応しているようなのです。
さらに、いなごの被害は、外敵の侵入を象徴してもいます。6節に「ある国民がわたしの国に攻め上って来た」とあります。「わたしの国」ということばが心に留まります。ここでの「わたし」とは主なる神のこと。イスラエルを神は「わたしの国」と読んでおられるのです。その事実を忘れるのが人間。自分たちの国、自分たちのもの、ではなくて、すべては主のものなのです。
そして、15節には「主の日は近い」とあります。それは「全能者による破壊の日」だと解かれます。「主の日は近い」はヨエル書のテーマ。その日に備えて人は何を考え、何を為すべきかを、この書から考えていきたいと思います。