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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

しかし、今でも

2018年12月04日 | ヨエル書

ヨエル書 2章1−14節

 月曜日。朝には久しぶりの青空で、きょうは太陽を見ることができるかと思ったら、雨。青い空はまるで当地の上を避けるかのように地平線の向こう側に逃げていってしまいました。

 2章の初めのことばは、1章で預言されたいなごの襲来の有様を描いているようです。いなごの大群が襲う様は青空を覆う黒雲のよう。この自然の災害とやがてイスラエルを襲うアッシリヤの大軍、ユダを襲うバビロンの大軍との姿がが重なります。しかも主は、それをご自分によるものだとおっしゃるのです。

 イスラエルの民は、主は自分たちを守り導くお方だと考えていましたから、ヨエルによって語られるこの預言には混乱したことでしょう。けれども、起こる理由があるのだということを彼らはヨエルの預言から知らされます。

 12節の「しかし、今でも」ということばが心に残りました。こんなふうになっても、こんなことになっても、なお望みがある、立ち直る道が設けられているというメッセージです。一人ひとりにとって「今」はどんな時なのでしょうか。もしかしたら、もう後戻りができないところまで来て手遅れなのではないかと、不安に駆られているかもしれません。

 どうせだめだ、やがて終わりが来るのだからというような刹那(せつな)的な考えに囚われることなく、この地にあって生きよ、何よりも、「心のすべてをもって、断食と涙と嘆きをもって、わたしのもとに帰」るようにとの、主のことばが心に響いてきます。感謝!


主に向かって叫び求めよ

2018年12月03日 | ヨエル書

ヨエル書 1章

 アドヴェント第一主日。お借りしている教会のクリスマス祝会に招かれたので、礼拝の後で合流させていただきました。皆さんが持ち寄った美味しいお菓子がたくさん。若かった時にはあれもこれもと食べたことでしょうが、限界あり。それでも、何を食べたかを数えてみたら、いつもよりも多かったです。

 ヨエル書と言えばいなご、と私の中では結びついていますが、改めて1章を読んでいなごのすさまじさに驚かされます。

「噛みいなごが残した物は、いなごが食い、いなごが残した物は、バッタが食い、バッタが残した物は、その若虫が食った。」

 ヨエルから「恥を見よ、…泣き叫べ」と声をかけられている農夫たちは、やり切れない思いで、せっかく育てた物が裸にされていくのを眺めていたことでしょう。彼らはどこに、何に、誰に、助けを求めればよいのでしょう。ヨエルは言います、「断食を布告し、きよめの集会を招集せよ」と。それは、断食をすれば…きよめの集会をすれば…というのではなくて、「主に向かって叫び求め」るためにでした。

 キリストを信じる者は、「何事かがあったら神に祈ること」という対処の仕方法を知っています。「窮(きゅう)すれば通ず」ということばがありますが、「お手上げ」の中でこそ、「主に向かって叫び求めよ」ということばの力強さを覚えます。


その日、その時

2013年12月18日 | ヨエル書
ヨエル書3章


 当地はどんよりとした曇り空の朝。雨が予報されています。

 3章には、神がユダとエルサレムを回復するとともに、周辺諸国へのさばきのメッセージが届けられます。

 「その日、その時」ということばに目を留めてみようと思います。
 ある人にとって神を信じることは、その人が長いこと克服できなかった問題を乗り越えるという証しをもつことかもしれません。けれども、神を信じたからといって同じような「効果」が得られない人もいます。いや、かえって神に信頼しているにも関わらず重い病にかかったり、問題を抱えたりするということもあるのです。

 すぐに「その日、その時」を迎えられる人もいれば、ずっとずっと待たなければならない人もいます。けれども、間違いなく「その日、その時」が来ると信じて歩むのが、私たちを育てるのだと思います。ある人は「その日、その時」が遅すぎるとじりじりするかもしれませんが、信頼し続けるときに、多くの恵みを味わうことができます。

 今朝のニュースでは、現政権が「国家安全保障戦略」を決定したと報じていました。何やらきな臭い時代にはいろうとしている不安を禁じえません。
 けれども、神が事を動かされる「その日、その時」を信じることができなければ、やったらやり返せと互いの間の垣根を高く強くしなければならないものなのだと改めて思います。

 本日の「みことばの光」の終わりにある、「感謝しよう」ということばにあるように、矛盾に満ちた時代をあきらめずに、みことばに向かい、声を上げ、祈り、「その日、その時」を待ちたいと思います。
     


すべての人に

2013年12月17日 | ヨエル書
ヨエル書2章15-32節


 お菓子用にといただいた林檎をたくさん積んで、昨日雪の福島から戻って来ました。
 林檎畑の中、車を走らせると、一本の樹に二三個りんごが残っています。鳥のために、なのでしょうか。
 通り慣れた東北自動車道ですが、いつも思うのは関東平野にはいるとどんよりとした空が冬の青空に切り替わるということ。

 ヨエル書2章後半。罪を悔い改めた者に、神が祝福を与えられることが語られています。さらにここには、新約聖書において実現され、さらに実現が待たれていることも預言されています。

 心に留めたいのは、「わたしの霊をすべての人に注ぐ」とのことばです。後にペテロは、イエスが昇天した後のペンテコステの日に起こった出来事をこのことばで説明しました。さらに「主の御名を呼ぶ者はみな救われる」ともあります。厳しいさばきの預言だと思われるヨエル書に、神がどれほど情け深くあわれみ深いお方か、罪を犯す者のために回復の道を備え、そればかりか豊かな祝福を注ぐとの約束があることに驚きます。

 私たちは「限定」ということばに弱いですね。テレビショッピングなどでも「限定500名様」とあると急いでという気持ちを持つ方も多いのです。そこに「限定…!」のねらいがあるのでしょうが。けれども、ここには「限定」はありません。
 「わたしの霊をすべての人に注ぐ」「主の名を呼ぶ者はみな救われる」とのことばに、神の愛の大きさが表れていると思いました。
     


思い直してくださるから

2013年12月16日 | ヨエル書
ヨエル書2章1-14節


 昨日の夕方から福島に来ています。くっきりと晴れ渡った冬の夕暮れが、那須インター辺りからどんよりとした曇り空に。やがて雪が降ってきました。今朝は雪景色。これから、リンゴ農家を訪ねます。山の麓の農家のあたりは、もっと雪が深いかもしれません。冬用のタイヤで来てよかったと思います。

 ヨエル書の主題は「主の日は近い」(1章15節)です。いなごの大群が畑の作物や機器の果実を食い尽くしてしまうという大災害がやってくる、それは自然災害ではなく主のさばきなのだのだとヨエルは語ります。きょうの箇所にも、「主は、ご自身の軍勢の先頭に立って声を上げられる」とあります。

 心に留めたいのは「思い直す」とのことば。今すぐに、罪を悔い改めて立ち返るならば、主が思い直してあわれみ、そのあとに祝福を残してくださると言うのです。
 神が情け深く、あわれみ深く、怒るのにおそく、恵み豊かなお方でなかったとしたら、アウトです。逃げ道はありません。わずかの失敗さえも赦されることなく、綱渡りのように暮らさなければならない…などと考えました。

 そして、改めて神のひとり子がこの世界においでになったことの素晴らしさとありがたさが身にしみます。
     


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