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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

知恵の初めに

2023年11月14日 | 箴言

箴言 4章

 昨日は「栗ご飯」を食べた話をしましたが、一緒に「おでん」もいただきました。圧力鍋で柔らかくなるまで煮込んだ牛すじ肉を加えたものです。でも、おでんでいちばん美味しいのは大根。その次はゆで卵、そして……。ここまでにしておきましょう。

 4章には「知恵の価値」が強調されているように読みました。1章8節から「わが子よ」という呼びかけのことばから始まる「わが子への教え」は、知恵を得よということです。しかし、ここで何度も書いてきたように、それは世渡り上手の知恵とか、人々に称賛されるような知識や英知を指しているのではありません。

 父がわが子を訓戒するものは、神の戒めに基づいた教えであり、それに基づいた知恵です。主を恐れることが根底にあります。3−4節を読むと、この教えは、父の父、そのまた父からと代々受け継がれてきたものです。何世代もの間、時代の荒波に揺さぶられながらもその意味を失うことなくあり続けた知恵なのです。

 7節の「知恵の初めに、知恵を買え」ということばに目が留まります。何よりもどれよりもこの知恵は「買い」なのだと言うのです。その前の5節には「知恵を得よ」、6節には「知恵を捨てるな」とあります。何を犠牲にしてもこの知恵は買いなのだ、買ったら決して手放すなとの強い促しをここから覚えます。キリスト者がキリストから決して離れないということに通じることです。

 10節以降では、正しい者の道と悪しき者の道とが示されます。もちろんわが子が歩むべきは正しい者の道。それを選ぶためにも「知恵の初めに知恵を得る」のです。


主があなたの頼みだから

2023年11月13日 | 箴言

箴言 3章21−35節

 久しぶりに「栗ご飯」を食べました。ストラスブールのスーパーで購入した栗をむいてもち米といっしょに炊いたものですが、栗の甘さが予想以上でした。

 「わが子よ」で始まる3章後半にはいくつかの「……してはならない」という命令があります。21節の「見失ってはならない」、25節の「おびえるな」、27節の「善を……控えてはならない」、さらに28−31節に「……してはならない」が並んでいます。

 目を留めたのは、なぜ「……してはならない」という命令が届けられているかということです。ここには、その人、私たちにとっての理由が明らかにされているのではなくて、「主が……だから」が理由なのです。 

 なぜせっかく得た知性や思慮を見失ってはならないのか、なぜおびえてはならないのか、それは主がその人の頼みであり、その人を守ってくださるからなのです。怖がる幼子をしっかりと抱きしめて話さない親のように、主は愛するわが子をいつどのようなところでも守ってくださると信じることができるのなら、おびえることはありません。

 なぜ、善を行う力があるのに控えてしまわないのか、悪を行う誘惑に巻き込まれてしまわないのか、それは、主が曲がった者を忌み嫌われる方だからです。自分のうちにある善を行う思いや力、悪を退けようとする決意にはもろさがあります。だからこそ、主が私にとってどのような方なのかに目を向け続けていく必要があります。

 自分を見つめて落ち込んだり高ぶったりしないように……。


知恵があなたを守る

2023年11月11日 | 箴言

箴言 2章

 久しぶりにわが家に小さなお客様が訪ねて来ました。いっしょにお昼をいただいてから、近くの公園の遊具がある場所へ……。風が冷たかったのですが、子ども用のクライミングに何度も挑戦し、最後にはほとんど一人で登ることができました。 私、ですか。もちろん応援に回りました。

 2章を読んで目に留まるのは「知恵」が「英知」「悟り」「知識」「思慮」など、さまざまなことばで表現されていることです。3−4節には、この知恵を探し求めよとあります。そして探り出した者への約束は、主を恐れることを知るということです。これはすでに1章7節に「主を恐れることは知識の初め。  愚か者は知恵と訓戒を蔑む」と明らかにされています。

 7節以降には、主はご自分を恐れる者をあらゆる点で守ってくださるとの約束が連なります。それは一つには悪の道から救い出してくれるということであり、16節以下では誘惑から救い出してくれるということです。

 この世界には「悪知恵」がはびこっています。自分がどうしたら儲かるのか、力を持つことができるのか、周りから尊敬されるようになるには……とするときに、多くの人は優先順位を間違えます。主を求めることなく、悪知恵を駆使しようとするのです。

 21―22節を読むと、詩篇1篇などを思います。そして、ここで明らかにされているのは聖書が一貫して伝えていることです。一見そのようには思えないような現実の中で、箴言が明らかにしているもう一つの現実こそ間違いないものだと、思い巡らしています。


大声で叫ぶ知恵

2023年11月10日 | 箴言

箴言 1章20−33節

 紅葉と針葉樹のコントラストの美しい「黒い森」から戻って来ました。雨もあがり、自宅からの夕景も美しかったです。

 箴言1章後半は、知恵の叫びから始まります。しかも大声で……。その前に書かれていることと結びつけてみますと、父母を通して届けられる主の教えを聞こうとしないで、悪しき者の道に入り込んでしまう者を正しい道へと、しかも大きな声で戻そうとする、知恵の熱心が伝わってきます。

 ここでは知恵が、人格をもつ存在として語りかけています。そこから読者が思うのは、神、そして新約聖書の光に照らされてここを読むのなら、イエス・キリストのお姿と重なります。

 ヨハネの福音書7章28節には、「 イエスは宮で教えていたとき、大きな声で言われた。「あなたがたはわたしを知っており、わたしがどこから来たかも知っています。しかし、わたしは自分で来たのではありません。わたしを遣わされた方は真実です。その方を、あなたがたは知りません」とあります。しかし、それを聞いた人々はイエスの大きな声に聞き従うことをせずに、イエスを捕らえようとしました。

 ヨハネの福音書7章37節には、「さて、祭りの終わりの大いなる日に、イエスは立ち上がり、大きな声で言われた。『だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい』」と言われたと書かれています。この時もある者はイエスを捕らえたいと思いました。そしてヨハネの福音書12章44節にも、イエスが大きな声で言われたとあります。

 大きな声で話す必要のある場所だったと言えますが、間違った方向に行こうとする人々に伝えるいのちに関わるメッセージなので、大きな声で伝えなければなりませんでした。箴言に戻りますが、24節以下には知恵の呼びかけを拒む人々が描かれています。そしてその人々の行き着く先は滅び。33節は、生きるためにすべての人々に届けられる大切な約束です。


誰とともに歩くのか

2023年11月09日 | 箴言

箴言 1章1−19節

 隣駅まで歩き、ケーキとコーヒーで一休みしました。大きなケーキを食べてお腹がいっぱいになりましたが、そのあと徒歩で宿泊施設まで戻ったので、つまり往復とも歩きましたので、食べた分は少し消費できたのではないかと、勝手に考えています。

 「みことばの光」は今日から箴言を読みます。箴言は前後関係や時代的な背景をそれほど意識することなく、おおむね二行でひとまとめになっている一つ一つの知恵のことばの意味を考えていくことが多いのではないかと思います。

 初めの部分に箴言が何のためにあるのかが明らかにされています。それは人を賢くするものです。しかしただたくさんの知恵や知識を身に着けさせようとするものでないことが、ここから分かります。

 7節の「主を恐れることは知識の初め。愚か者は知恵と訓戒を蔑(さげす)む」は、箴言の主題です。あらゆる知識の根底には主を恐れることがあると、ここから分かります。

 神を恐れるとは、神の偉大さ、神の義、神の聖の前に恐れをいだき、神を畏れて生きることです。人は、どんなに優れた知識を自分のものにして、賢さを身に着けることの前に、そのことに先立って「主を恐れること」がなければ、それは意味を持たず、場合によって人を破滅に追いやることさえあります。

 8節以下では、人は誰について行くべきなのかについて説かれます。「父の訓戒に聞き従え。母の教えを捨ててはならない」は7節を前提にしています。この場合、父も母も主を恐れることをわが子に教えることを何よりも大切だと考えているのです。

 天地創造の神を抜きにして、人は真に賢くはなることができません。


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