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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

どちらに応えるか

2023年11月21日 | 箴言

箴言 9章

 お休みの月曜日。午後からライン川支流に拡がる自然公園に出かけました。森と草原とが混在する夕暮れの道を歩いて、隣の駅まで行く予定を立てて出発。最後の橋を渡ってそこで見たのは水没した道。仕方がないので、歩いて来た道を出発点まで戻ることにしました。でも、美しい景色を堪能する素晴らしい体験でした。

 9章は箴言の最初の大きな区分の終わりの部分。ここでは、知恵が食卓を備えて浅はかな者・良識のない者に来るようにと呼びかけています。ここまで読んできて気づいたことの一つは、知恵が浅はかな者を招いているということです。

 ここを読んで、イエス・キリストの食卓風景を思いました。イエスは、取税人や罪人という当時の社会では嫌われていた人々と食事をしました。それをとがめられた時のイエスのことばはこうです。「医者を必要とするのは、丈夫な人ではなく病人です。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招くためです。」(マルコの福音書2章17節

 しかし、浅はかな者に呼びかけるもう一つの声があります。13節に登場する「愚かな女」です。彼女は家の戸口の入り口で、また町の高い所で人々に呼びかけています。その呼びかけのことばは、なんと、知恵のそれと全く同じなのです。「浅はかな者はみな、ここに来なさい。」どちらの呼びかけに答えたらよいのかは明らかです。それは、10節が鍵です。1章7節に置かれていたとほとんど同じことばがここにも置かれています。

 私たちはだれもが浅はかな者。だからこそ、主を恐れることを土台にして歩む必要があるのです。さあ、どちらの呼びかけに応えるべきでしょうか。


今、……聞き従い

2023年11月18日 | 箴言

箴言 7章

 金曜日は昼過ぎまでは青空の見えるお天気でしたが、出かけようとしたら雨が降り出しました。冬至まではどんどん暗くなるのが早まります。

 「わが子よ」との呼びかけで始まる勧め、7章の初めには知恵の近くにいるようにと言われます。忘れてしまわないように、「自分の瞳のように守ること」「指に結ぶこと」「心の板に書き記すこと」さらには「自分の妹だ」「身内」だと呼ぶべきだとも言われます。

 ここからは、知恵がその人の教養を示すアクセサリーのようなものではなくて、もしもそれを遠くに追いやってしまった先には死が待ち構えているという、必須のものだという緊迫感が伝わってきます。

 なぜ忘れてはならないのか、身につけていなければならないのか、5節に理由が明らかにされています。それは自分を「よその女」守るため。彼女の誘いかけは巧みです。本心を隠して美しく装い、甘いことばで誘います。この章の後半には、誘いに引き込まれて「従順に」ついて行く若者の姿が描かれます。それは死への道です。

 24節の「子たちよ、今、私に聞き従い」ということばのうち、「今」に目が留まりました。物事には先延ばしできないことがあります。「そのうちに」とあいまいな答えのままでいてはならないことがあるのです。「今何を……」と、その都度問われる日々なのです。

 

 


いのちの道を

2023年11月17日 | 箴言

箴言 6章20−35節

 雨の中買い物へ。妻が長い間愛用していた傘が壊れてしまいました。私たちが使い始めた時にはかなり年月が経っていたので、本当にがんばってくれたのだと思います。

 「わが子よ」ということばで20節が始まりますので、ここから新しい段落になります。ここにも性的な誘惑から身を守るためにとの戒めがあります。その基本は「あなたの父の命令を守れ。あなたの母の教えを捨ててはならない」です。

 22―23節は動きのあることば。歩くとき、寝ているとき、そして目覚めるときと時間的な推移がみられ、ともしび、光、そしていのちの道と続きます。特に「いのちの道」ということばに目が留まります。そのあとの陥りやすい誘惑の先にあるのは死。それを避けるには神のことば、神の知恵がどうしても必要なのです。

 箴言14章12節と、16章25節に同じことばがあります。それは「人の目にはまっすぐに見えるが、   その終わりが死となる道がある」です。私たちの目は時に、見るべきものを見ていない、見えていません。滅びの道が「まっすぐに見える」のですから。だからこそ、見た目の平らさに惑わされずに、「いのちの道」を歩むことを常に選ぶことが必須なのです。

 詩篇119篇105節を覚えます。「あなたのみことばは 私の足のともしび。私の道の光です。」これは「みことばの光」の元になっている聖句であり、表紙に常に置かれています。


自分を救い出せ

2023年11月16日 | 箴言

箴言 6章1−19節

 訪ねて来られた方からクリスマスのお菓子をいただきました。初めて焼いたとのことですが、やさしく美味しい味わいでした。あと少し経つと、あちこちにクリスマスマーケットが……、という時期です。

 この章の初めには、悪の罠にかかった時にどうするのかが教えられています。安易に誰かの保証人となってはならないというのは、昔も今も変わることのない鉄則ですが、それでもならざるをえないことがあります。

 保証人になったために、自分が負債を背負い込む羽目になった場合、ここでは「自分を救い出せ」「伏して隣人にしつこくせがめ」と勧められます。何としてもそれを逃れるようにあらゆる手段を費やせというのです。あらゆる努力をして保証人の責任から逃れるようにと勧められています。4−5節からその人の必死さが伝わってきます。

 6節以降では怠け者への教え。そこでたとえとしてあげられるのが蟻のことです。ここを読んで「蟻とキリギリス」の話を思い出す人もいるでしょう。さらに紛争の種を撒き散らす者への警告、そして16―19節ではこれまでのことをまとめるようにして、主が嫌われるものが挙げられます。

 ここからも3章5節の「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな」ということばをおぼえました。人は毎日たくさんのことを考え、決断していきます。その時何に頼るのかが問われるのです。「自分の悟りに頼るな」とは何も考えず、何も努力しなくてもよいということではありません。

 大切なことを決めなければならない時に、主である神を覚える、そして見上げるというのが必須だということが、ここにある一つ一つのことから伝わってきます。


後悔先に立たず

2023年11月15日 | 箴言

箴言 5章

 「みことばの光」を発行している聖書同盟のウェブページが新しくなりました。これまでは「継ぎはぎ感」があり、それはそれで味わいがありましたが、今回のものはおしゃれで分かりやすいものになりました。「みことばの光」をカード決済で購入できるようにもなったそうです。本ブログの左側⇐にリンクしていますので、一度訪ねてみてください。

 「わが子よ」の呼びかけが続きます。ここでは、性的な誘惑に負けてしまわないようにと、父が語る英知に耳を傾けよというのです。3−6節には「よその女」による巧みな誘いかけが、その恐ろしさが生々しく描かれています。そして、ここにある教えは時代を越えて耳を傾けるべきことばです。

 「よその女」というのですから、結婚後に訪れる大きな誘惑を避けるようにと、わが子に語られているのかもしれません。12節は「よその女」のところにふらふらと行ってしまった者の後悔のことばです。知恵のことばに耳を傾けようとしなかった者に待ち構えている悲惨な結果に、この人は嘆くのです。後悔先に立たずとはこのようなこと。

 21節に目が留まります。誰にもばれないと隠れて行うことも主はすべてを知っておられるのは、それを常に心に留めておくことは、罪に走ろうとする私たちを思いとどまらせる力になります。「神さまが見ておられるよ」に気づくのは幸いなことなのです。そして3章6節のことばを併せて思いました。

 「あなたの行く道すべてにおいて、主を知れ。主があなたの進む道をまっすぐにされる。」


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