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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

知り抜いている神

2023年11月27日 | 箴言

箴言 14章1−19節

 クリスマスに発表する子どもたちの朗読劇の初めての合同練習がありました。朗読する子どもたちも、演奏する子どもたちも緊張しつつ一生懸命取り組んでいました。12月17日の「本番」がとても楽しみです。

 日曜日の礼拝で、箴言は「遅読」するべきとのことばを引用しましたが、確かに、サーッと急ぎ足で読んでしまうなら気づかない味わいを、2行一組の格言たちは提供しています。

 10節に「心はその人自身の辛さを知っている。その喜びにはほかの者はあずかれない」とあります。「その人」と「ほかの者」、「辛さ」と「喜び」が、そして「知っている」と「あずかれない」とが対比されています。

 最初の行から思い浮かべるのは孤独です。どんなに近い関係にあっても、誰かの辛さをすべて分かっているということはありません。いや、もしかしたらその人自身も辛さのわけが分からないのかもしれません。2行目からは喜びが伝わってくるのですが、そこにも孤独が影を映します。しかし、ここでの孤独は決して悪いものではないと、私は思います。なぜなら人は、そのような中で神を求めるからです。

 金曜日にオンラインで聖書を読みました。そこで開いたのは詩篇139篇の初めの部分。そこでは神が私のすべてを知っていると繰り返されています。「主よ あなたは私を探り 知っておられます」は思いつきからの慰めの言葉ではありません。事実なのです。しかも神は、「御手を私の上に置かれた」のです。それは保護を、完全な守りを表しています。

 自分で自分の辛さの理由が分からなくても、神はすべて分かっている……。神を恐れる者の望みがここにあると思うのです。


軽んじられても…

2023年11月25日 | 箴言

箴言 12章

 月一度の聖書の会。お昼も楽しみです。普段お昼は抜いているのですが、この日は別。少しずつ取り分けているつもりですが、すぐにお皿がいっぱいになります。みんなで食べるのがさらによい味付けになっているようです。

 2行で一まとまりの箴言がここでも続きます。その多くは1行目と2行目とが反対の意味を伝えていて、どちらの道を歩むべきなのかをはっきりと読者に届けようとしているのが分かります。

 ここでも、「口」「唇」「ことば」などが繰り返されています。口から出ることばはその人をいのちに、あるいは滅びに導くほど大切なものだということが心に刻みつけられます。

 9節について、日本語訳聖書の翻訳の推移に興味を持ちました。

「身分が低くても、しもべを持つ者は、 高ぶっていて食に事欠く者にまさる。」(新改訳 2017)、「身分の低い人で職を持っている者は、 高ぶっている人で食に乏しい者にまさる。 」(新改訳第三版)、「軽蔑されていても僕を持っている方が 尊敬されていてパンを欠くよりよい。」(新共同訳)、「軽んじられても自ら働く者は 重んじられていながらパンを欠くことにまさる。」(聖書協会共同訳)

 違いは、それぞれの翻訳が用いた「底本」(翻訳の際によりどころにした原本)によるものですが、「身分が低くても、しもべを持つ者」という訳は確かにわかりにくいのですが、世間的な立場ではなくてその人がどのような働きをしているかが大切だ、ということを教える箴言だと理解できます。外見や世間体を大切にするあまり、ほんとうに必要なものを欠いてしまうというのはありえます。


富への正しい姿勢

2023年11月24日 | 箴言

箴言 11章

 近くを走る地下鉄のリニューアル工事が進行中。路盤のバラストを入れ替え、枕木がコンクリートになり、新しい架線が張られつつあります。今までよりも乗り心地はどう変わるのだろうかと、今から楽しみにしているのですが……。

 11章には「富」に関係のある箴言が目に留まります。「富」を第一に求めると、1節のように偽りが入り込みます。そのようにして得た財産ですが、神の怒りの前には何の役にも立たないと4節にあります。さらに、せっかく自分の手にすることのできた富も、死とともに手放さなければならないとは7節で言われていること。

 一方で、正しい姿勢で働いた者が報酬を受けるというのは18節。さらに、気前の良い人のところにはさらに富が加えられるとは24節の箴言です。自分のことよりも他の人を潤そうとするなら自分が潤され、穀物を気前よく得る人には祝福があるとは25-26節。そして、富に拠り頼むのではなくて神に拠り頼むようにと28節に勧められています。

 このように読んできて、いわゆる「山上の説教」の中で、富へのあるべき姿勢ついてイエスがおしえられたいくつかのことばをおぼえました。

 「自分のために、地上に宝を蓄えるのはやめなさい。そこでは虫やさびで傷物になり、盗人が壁に穴を開けて盗みます。自分のために、天に宝を蓄えなさい。そこでは虫やさびで傷物になることはなく、盗人が壁に穴を開けて盗むこともありません。 」マタイの福音書6章19−20節


良いことばは良い耳から

2023年11月23日 | 箴言

箴言 10章17−32節

 火曜日の夕方、迎えにお住まいの方が来宅。路上に停めてある自動車の窓が開いていると知らせてくださいました。一緒に行ってみると確かに、運転席と助手席の窓が半分ほど開いていました。どうして……? 特に異状はなかったのですが、何があったのでしょうか。

 10章後半で目に留まるのは、「口」「唇」ということばです。そして、「正しい人」と「愚かな者」・「悪しき者」が対比されます。正しい人の口は何を語りその結果何を生み出すのか、悪しき者の唇は何を語り何を生み出すのかが、比べられています。

 人がどのようなことばを自分の口から出すのかの分かれ目は、17節にあります。つまり、訓戒を大事にするか、それを捨てるかです。訓戒や叱責を受け入れるのは簡単ではありません。愚かな者は叱責を受けると耳を塞ぎます。いや、それどころか逆ギレし兼ねません。「私はそうは思わない」「私には自分のやり方がある」などというもっともなことばを用いて、拒むのです。

 このことは、聖書の読み方や礼拝での説教の聴き方にもつながります。自分の心を満足させることばには目が留まりますが、思いや行いをとがめるようなことが書かれたり語られたりしますと、心の耳の蓋を閉じてしまいます。良いことばは、良い耳から出てくるのだと、ここを読んで考えました。


正しい人、悪しき者

2023年11月22日 | 箴言

箴言 10章1−16節

 「みことばの光」は今、来年2月号の編集をしています。来年はうるう年なのですね。いつもの月とはページ割が違うので、注意深く進めています。

 10章1節に「ソロモンの箴言」とあり、箴言はここから新しい区分にはいります。この「ソロモンの箴言」は22章16節まで続きます。

 これまでが知恵を得るようにと、人生の土台について「わが子よ」「子どもたちよ」と呼びかけながら、父がまた教師が次の世代に教えるという内容でした。しかしここからは、「知恵のある生活」とはどのようなものかについて、2行一まとめの勧めが延々と続きます。

 ですから、前後関係をそれほど意識しないで一つ一つのことばを味わうのがよいと思います。

 1節に「知恵のある子は父を喜ばせ、愚かな子は母の悲しみとなる」とあります。子どもは両親によってこの世に存在しているのですが、それだけにどのように歩むかは親にとって大きな関心事。そうであったとしても、親は子どもが自分の望むようになるようにはできません。

 「知恵のある」「愚かな」は対照的なことばですが、それは知的に…ということを言いません。これまで箴言を読んできて考えるのは、「神を恐れる」という生きかたを子どもがすること、これが親にとっての喜びなのだということです。

 ここには、「正しい人」と「悪しき者」との対比が3、6、7、11、16節に見られます。そしてそれぞれの歩みの先に待ち構えているのは全く違う結末。「正しさ」とは道徳的社会的に…以前に、神の前の正しさ、神との関係の正しさを意味しています。そして、そのために何が為されたのか……。イエス・キリストの十字架が見えてきます。


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