箴言 17章
待降節第一日曜日、寒さの厳しい一日でした。この日は朝10時に教会に集まり、子どもたちのロウソク作りを手伝い、その後は朗読劇の練習、そして礼拝と続きました。
17章からは「まさる」、「ましだ」、「よりも」ということばが目に留まります。それらは比較する場合に用いられます。けれども、ここでの比較はちょっとだけすぐれているというものではなく、比較にならないほどのものだということです。
1節の「乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ご馳走と争いに満ちた家にまさる」ということばからは、家庭に何が満ちているべきなのかを考えます。「乾いたパン」というのは、焼いてから時間の経ってしまったパンのことで、美味しくはありません。ご馳走と対極に位置する食べ物です。でも、そんなパンが美味しくなる秘訣がある、それは家族の平穏です。
10節には「分別のある者を一回叱ることは、愚かな者を百回鞭打つよりも効き目がある」とあります。ここでは分別のある者と愚かな者、一回と百回が並行関係です。「分別のある者」ということばはここを含めて3回登場します。分別と知恵とは切っても切れません。分別は神を恐れることから来るのです。
本章の最後には「愚か者でも黙っていれば、知恵のある者と思われ、その唇を閉じていれば、分別のある者と思われる」は、少々皮肉めいた格言ですね。
12節の「愚かさにふける愚かな者に会うより、子を奪われた雌熊に出会うほうがましだ」は恐ろしい格言です。双方とも手がつけられない様子を表しています。ここでの「愚かさ」とは、一般に言われるものとは異なります。知恵を持つことのない者、持とうと願わない者のことです。これまで読んできた箴言は「主を恐れることは知恵のはじめ」というテーマで貫かれていますので、「愚か」とはどのようなことかは明らかです。神を恐れない者は手がつけられません。
わが子がそうなってしまうのは親の悲しみだと、この章で何度も繰り返されているのが心に留まります。