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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

父の憂い、母の痛み

2023年12月04日 | 箴言

箴言 17章

 待降節第一日曜日、寒さの厳しい一日でした。この日は朝10時に教会に集まり、子どもたちのロウソク作りを手伝い、その後は朗読劇の練習、そして礼拝と続きました。

 17章からは「まさる」、「ましだ」、「よりも」ということばが目に留まります。それらは比較する場合に用いられます。けれども、ここでの比較はちょっとだけすぐれているというものではなく、比較にならないほどのものだということです。

 1節の「乾いたパンが一切れあって平穏なのは、ご馳走と争いに満ちた家にまさる」ということばからは、家庭に何が満ちているべきなのかを考えます。「乾いたパン」というのは、焼いてから時間の経ってしまったパンのことで、美味しくはありません。ご馳走と対極に位置する食べ物です。でも、そんなパンが美味しくなる秘訣がある、それは家族の平穏です。

 10節には「分別のある者を一回叱ることは、愚かな者を百回鞭打つよりも効き目がある」とあります。ここでは分別のある者と愚かな者、一回と百回が並行関係です。「分別のある者」ということばはここを含めて3回登場します。分別と知恵とは切っても切れません。分別は神を恐れることから来るのです。

 本章の最後には「愚か者でも黙っていれば、知恵のある者と思われ、その唇を閉じていれば、分別のある者と思われる」は、少々皮肉めいた格言ですね。

 12節の「愚かさにふける愚かな者に会うより、子を奪われた雌熊に出会うほうがましだ」は恐ろしい格言です。双方とも手がつけられない様子を表しています。ここでの「愚かさ」とは、一般に言われるものとは異なります。知恵を持つことのない者、持とうと願わない者のことです。これまで読んできた箴言は「主を恐れることは知恵のはじめ」というテーマで貫かれていますので、「愚か」とはどのようなことかは明らかです。神を恐れない者は手がつけられません。

 わが子がそうなってしまうのは親の悲しみだと、この章で何度も繰り返されているのが心に留まります。


直ぐな人の大路

2023年12月02日 | 箴言

箴言 16章16−33節

 昨日は孫の一人の誕生日。水曜日の祈祷会の時に、その日が良い天候であるように祈り、牧師にも祈ってほしいと願ったそうです。神は祈りに答えてくださり、穏やかでよい誕生会を持つことができました。明日は彼のお母さんの誕生日。誕生会が続きます。

 16章後半をでは、「道」が目に留まります。「直ぐな人の大路」とはどんな景色なのだろうかと想像が膨らみます。15章19節に「 怠け者の道は茨の生け垣のよう。   直ぐな人の進む道は平らな大路」とありました。

 またイザヤ書35章9節には、「そこに大路があり、その道は『聖なる道』と呼ばれる」とあります。ここでは、神が来て救われることによって切り開かれる道を指しています。イエスがメシアとしての働きをする前に、人々に悔い改めを説きバプテスマを授けたヨハネを、イザヤ書40章3節は「主の道を用意せよ。荒れ地で私たちの神のために、大路をまっすぐにせよ」と紹介しています。「直ぐな人」とはメシアによって救いを賜わった者ではないかと考えました。

 25節には「終わりが死になる道」とあります。私たちの目はだまされやすく、錯覚しやすいのです。「道であり、真理であり、いのちである」と言われる主イエスに拠り頼んで初めて、いのちへの道へと足を踏み入れることができます。

 さらに、29節には「良くない道」とあります。悪しき者はそれ自身が滅びに突き進むだけでなく、隣人をも巻き込みます。白髪に至るまで主の道を歩む者でありたいと願いました。私はすでに白髪ですが……。


より良いこと

2023年11月30日 | 箴言

箴言 15章16−33節

 水曜日の夕方から、南にある町のクリスマス・マルクトを訪ねました。それほど人でごった返していずに、温かな雰囲気でした。Langos(ランゴス)を食べました。ピザを小さくしたような揚げパンで、私たちはチーズをトッピングしてもらいました。

 15章後半を読んで、「機会」「タイミング」ということばを思いました。18節後半に「怒りを遅くする」、19節前半に「怠け者の道は茨の生け垣のよう」。22節前半に「よく相談する」、そして23節後半に「時宜にかなったことば」とあります。怠惰であったり、せっかちだったり、感情をすぐに爆発したりすることで、物事や人との関係を台無しにすることはよくあることです。

 しかし、計画を立てればよいというものでもありません。26節前半に「悪人の計画は主に忌み嫌われる」とあります。その人の心の拠りどころがどこにあるかが結果を分けてしまうのです。

 富を追い求めることが良いという価値観の中で、16、17節は大切なことに気づかせてくれます。ある英訳聖書には「愛の中でパンの耳を分けるほうが、憎しみの中でスペアリブを分けることよりもよい」とありました。神学校で学んでいた頃、先輩がパンの耳を30キロの粉袋いっぱいに持ち帰りました。パン屋さんが150円で売ってくれたのだそうです。早速ストーブの上でパンの耳をいただきました。その美味しかったこと!、忘れられない味でした。


一晩寝かせて…

2023年11月29日 | 箴言

箴言 15章1−15節

 月曜日の雪はいわゆる「重い雪」。それでも、朝の公園は銀世界でした。

 箴言はことばについての格言が見られますが、15章の前半でも繰り返されています。そしてここでも、聞く耳を持つことと良いことばを語ることは、切っても切れない関係にあると言われます。すなわち、「愚か者は自分の父の訓戒を侮る。叱責を大事にするものは賢くなる」と5節にあり、その賢さはことばに表われるのです。

 4節に目が留まります。「穏やかな舌はいのちの木。   舌のねじれは霊の破れ。」相手を生かすことばと滅ぼすことばとを、人間は口にするのです。先日、節約の工夫についてのビデオを観ました。ある方が節約の方法を次のように話していたのに注目しました。すなわち、インターネットで何かを購入するとき、ほしい商品を「買い物カゴに」入れたら一晩寝かせ、次の日になっても必要だと思ったら購入手続に進むのだそうです。

 ことばを発することにおいても「寝かせる」というのは有用だと思います。勢いに任せてメールやメッセージを出してしまったことで、失敗してしまうというのは多くの人に共通の経験かもしれません。夜に書いた手紙は朝の光に照らして読み直すのがよいと言われます。確かに必要な工夫かもしれません。

 13、15節を心に留めます。15節に「心に楽しみのある人には毎日が祝宴」とあります。以前の訳では「心に楽しみのある人には毎日が宴会である」とありました。「宴会」とはもう日常ではあまり使われなくなったので訳が変わったのかもしれませんが、個人的には「宴会」ということば、好きです。もっとも、「宴会」とはあまり縁がない仕事をしているのですが……。


幸いな人

2023年11月28日 | 箴言

箴言 14章20−35節

 月曜日、雨が昼過ぎから雪に変わりました。初雪です。水分の多い重い雪ですが、あっという間に別世界の景色になります。

 20章後半では、「王」「君主」「国」という言葉が目に留まります。知恵をもって国を治めることが王である者に求められ、その結果が「民が多いこと」「国を高め」「賢明なしもべ」などということばに明らかにされます。賢明なしもべは知恵ある王のもとで育つのではないだろうか、と考えるのですが…。

 20節はどのような意味なのでしょうか。この世の現実を描く格言かと思うのですが、21節と合わせて読むとよいかもしれません。確かに、貧しい者は隣人に憎まれる、憎まれるまでなくても馬鹿にされるという現実はあります。特に、現代のような富を追及し続ける社会の中で、貧しいというのは失敗者だというひどいレッテルが貼られかねません。

 しかし、隣人を貧しいからということで蔑む者は罪人、神に逆らう者なのです。「やもめ、みなしご、    寄留者、貧しい者を虐げるな。  互いに対して、心の中で    悪を企むな」という、ゼカリヤ書7章10節の言葉を思います。

 そして、21節2行目の「貧しい者をあわれむ人は幸いだ」という言葉からは、私たちの主イエスのお姿が映し出されます。「深くあわれんで」という言葉は、福音書の中で何度もイエスが示された思いとして用いられています。それはすべての隣人(となりびと)に示されるキリスト者の基本的な姿勢なのです。


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