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みことばの光的毎日

聖書同盟「みことばの光」編集者が綴るあれこれ

二つの招き

2018年10月13日 | 箴言

箴言 9章

 穏やかな青空が続き、近くの街路樹が見事に色づきました。久しぶりにドイツ風とんかつを食べましたが、その量の多いこと! 一人分を二人で分けてちょうどよい感じでした。とても美味しいとんかつでしたが…。

 1章からの父の語りかけ、知恵の呼びかけは本章で終わります。ここからは二つの招き、客寄せの声が聞こえてきます。一方は知恵からの誘い、もう一方は愚かな女からの誘いの声です。何度も読んでみますと、知恵も、愚かな女も、客寄せのことばは同じ。「浅はかな者はみな、ここに来なさい」と言うのです。また、声をかける相手も「良識のない者」と同じです。

 そのように見てみますと、ここで呼びかけられているのは特別に浅はかな者、良識のない誰かではなくて、私たちすべてなのではないかという思いに至りますね。誰もがいつも岐路に立たされ、どちらに行ったらよいのかと悩むのです。その時に聞こえてくるのが一方では知恵の呼びかけ、他方では愚かな女の呼びかけのことばです。

 どちらも美味しそうに聞こえるのですが、選択を誤るとたいへんな結末に。一方に聞き従った者にはいのちの年が加えられ、もう一方に聞き従う者の先には、よみの深みが待ち構えているというのです。

 知恵が呼びかけることばの一つ「主を恐れることは知恵の初め、聖なる方を知ることは悟ること」を心に留めます。


知恵を見出す者

2018年10月12日 | 箴言

箴言 8章22−36節

  友人とマインツにあるグーテンベルク印刷博物館を訪ねました。グーテンベルクが印刷したラテン語の「42行聖書」などの展示物から、文字の歴史や印刷への人間の熱意が伝わってきました。新しい技術を産み出す人間の知恵とはすごいものです。

 この箇所は、個人的に深い思いがあります。神学校を卒業する際の論文はここをテーマにしたものだったからです。ここでは知恵が自己紹介をしています。「みことばの光」が書くように、「得ていた」、「立てられていた」、「生み出された」、「そこにいた」ということばから、ここでは神と知恵とが切り離せない関係にあることを伝えています。

 そして、特に32節以降での「わたし」ということばからは、イエス・キリストのお姿を垣間見ることができます。そのように読んでいて心に留めたのは、「幸いなことよ。日々わたしの戸の傍らで見張り、わたしの門の柱の脇で見守って、わたしの言うことを聞く人は」という34節のことばです。

 イエス・キリストの側に私をおらせてくださいと願い、祈りました。


知恵が呼びかける

2018年10月11日 | 箴言

箴言 8章1−21節

 ここ一週間で、街路樹の、そして公園の樹々の色がずいぶんと変わりました。秋晴れが続きます。散歩の途中でクルミの木があるとその下をうろうろ。落ち穂ならぬ落ちた実を探します。スーパーで買えばよいのですが、拾って割った実が特別に美味しいと思うのは不思議です。

 知恵が一人の人として呼びかけています。人々が通り、あるいは集まる場所に立って、「わたしのことばを聞け」と声をあげているのです。すでに1章20、21節で「知恵は大通りで叫び、広場でその声をあげ、騒々しい街角で叫び、町の門の入口で、そのことばを語る」とありました。

 知恵は、浅はかな者たち、愚かな者たちに、賢さ、良識を身につけよと叫びます。このことばを読んで、自分にはあてはまらないと思う人がいるかもしれませんが、じつのところ、そのような人は一人もいません。誰もが、知恵のことばに耳を傾けなければ、破滅への道をたどり続けなければならないのです。

 12−21節には、知恵が自分がどのようなものかを主張しています。私たちの周りに、このような主張ができる人はいません。「摂理と知性はわたしのもの」と誰が言えるでしょうか。あれこれといろいろなことができるようになった人、多くの富を築き上げた人であったとしても、世界を自分の意のままに動かすことはできません。そのようにできると言う人がいたら、自分のことがよくわかっていないのでしょう。このように紹介、主張できるのは神お一人。

 このように主張するお方とともに毎日を歩ける安らぎをおぼえます。


知恵を身内に

2018年10月10日 | 箴言

箴言 7章

 「わが子よ」との呼びかけのことばが続きます。「知恵を身内に」というタイトルは、4節から採りました。ここでは、父や母が語る神を恐れて歩めということばを、自分の身内のように愛し、親しむようにとの思いが込められています。

 いざというときに、「ああ、忘れていた!」とか、「うっかりしていた」などということがないように、普段から自分の妹のように、身内として一緒に生活するのが大切なことだと教えられます。なぜそうするのかの理由がその後に続きます。それは、5章から教えられてきた性的な誘惑から自分の身を守るためです。

 この章には、妻が夫の留守中に若者を誘い込む様子が描かれています。人生経験の浅い若者は、この女の甘言にコロッとやられてしまうのです。22節は、若い男が、まるで磁石に引き寄せられていくように他人の妻に吸い寄せられていく有様です。「彼はただちに、彼女の後について行く。牛が屠り場に引かれて行くように、足かせが愚か者を懲らしめているかのように。」

 23節の「最後は矢が彼の肝を射抜く」とは恐ろしいことばです。そしてこれは、神を恐れずに歩むことがどれほど危なっかしいものなのかを、伝えています。何よりも先に、「主(神)を恐れる」という知恵を得、その知恵と仲良くせよと、迫ります。


心に結び、首に結び付けよ

2018年10月09日 | 箴言

箴言 6章20−35節

 自宅への帰り道は田舎道。数日前から一層紅葉(当地では黄色が多いのですが…)が進んだ感があります。沈む夕日を目指してのドライブでした。

 21節に、「それをいつも心に結び、首に結び付けよ」ということばがあります。「それ」というのは、20節の「父の命令」「母の教え」を指しています。「心に結び、首に結び付けよ」というのは、決して忘れてはならないということです。3章3節には「恵みとまことがあなたを捨てないようにせよ。それをあなたの首に結び、心の板に書き記せ」とあり、7章3節には「それを自分の指に結び、心の板に書き記せ」ともあります。

 「首に結び付けよ」というと、私の場合は鍵を思います。当地に来て程なく、家の鍵を家の中に閉じ込めてしまったことがあります。予備の鍵も家の中。結局、鍵屋さんを呼んで新しい鍵に交換することとなり、少なからぬ出費になってしまいました。それ以来、首に鍵をかけるよう心掛けることとなりました。

 父の戒めを聞くわが子の場合は、忘れてしまったならば「新しい鍵」どころではありません。他人の妻に手を出すようなことがあってはならず、そんなことをしてしまったら、神が合せられた結婚の絆を揺るがし壊すことになるばかりか、本人のいのちのかかわることでもあるのです。

 「だめなものはだめ」と自分に言い聞かせるとともに、はっきり語る者であるようにと、神に祈ります。


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